前回は、勝山と小笠原家の歴史を一気にみてみました。
今回からは、ゆっくりとポイントをみていきたいと思います。
そこでまずは、勝山地域が広く知られるきっかけとなった白山信仰と平泉寺についてみていきましょう。
白山
白山は、石川県と岐阜県の県境にそびえる火山です。
御前峰(2,702m)、大汝峰(2,684m)、剣ヶ峰(2,677m)の三峰からなる白山は、山頂に美しい火口湖を持つとともに、周囲の山々を従えるようにそびえたつ姿から、「越白嶺」とよばれて古来から山岳信仰の対象となってきました。
白山信仰のはじまり
この白山、養老元年(717)に越前の行者・泰澄が開山(初登頂)したと伝えられています。
それから、白山は修験道の霊場となり、富士山、立山と並んで日本三霊山の一つとして信仰を集めるようになりました。
「白山之記」によると、信仰が広まるとともに霊場や参詣路が整えられていきます。
天長9年(832)ころまでに越前馬場平泉寺(勝山市)、加賀馬場白山寺(石川県鶴来町)、美濃馬場長滝寺(岐阜県白鳥町)という白山三馬場が成立したのです。
泰澄伝
ところで、白山を開いたとされる泰澄はどうして白山を目指したのでしょうか。
「泰澄和尚伝記」によると、白鳳22年(682)越前国麻生津、現在の福井市浅水町で生まれた泰澄は、丹生郡越智山頂で霊験を感得、白山禅定の旅に出ました。
養老元年(717)泰澄36歳の時に、九頭竜川の筥の渡しから伊野原、現在の猪野付近を通って東に向かいます。
そして、白山のふもとの「林泉」に立つと、白山神の導きを得て白山天嶺を極めたのです。
この「林泉」が平泉寺(現在の白山神社)境内にある御手洗池のことなのです。
平泉寺の台頭
こうして、平安時代の終わりごろには白山修験は越前から加賀にまたがる一大勢力へと成長します。
泰澄開基と伝えられる諸寺院は繫栄したうえに、平泉寺を盟主として連合したのでした。
平泉寺が中心的役割を果たしたのは、もちろん泰澄伝説の「林泉」の地であるからでしょう。
そして、泰澄のたどった越前平泉寺から白山へと向かう道がとくに重要視されることになりました。
さらに、応德元年(1084)には比叡山延暦寺の末寺となって、ますますその権威を高めます。
源平合戦に参戦
平泉寺は比叡山延暦寺のように多くの僧兵を抱えるだけでなく、武士たちも抱えて、北陸でも有数の軍事力を持つまでになったのです。
それを裏付ける事実が『平家物語』に出てきますので、ちょっと見てみましょう。
源平合戦が起こると、平泉寺長吏斉明は、白山諸社の武士団と語らって、木曽義仲に味方し今庄(南条郡)の燧城に籠りました。
これを聞いた義仲は、越中に入ると白山権現に戦勝を祈願して藤島七郷を平泉寺に寄進します。
木曽義仲と戦う
ところがすでに、斉明は変心して平氏の陣にあったというから驚きますよね。
こうして、寿永2年(1183)6月1日、加賀国篠原、現在の石川県加賀市で、木曽義仲軍5,000騎と平維盛率いる平氏軍4万余が決戦しました。
これが世にいう加賀篠原合戦で、結果は大逆転で義仲の圧勝、平氏軍は壊滅して義仲入京への道が開くことになったのです。
この合戦で平氏軍に参加した斉明は捕らえられて首をはねられました。
こうして平氏側についた平泉寺に対して、源頼朝が藤島七郷を没収したのは当然のこと。
さらに鎌倉幕府は、頼朝のライバルの義仲に味方したうえに、平家に味方したことで、平泉寺を冷遇し続けたのは当然のなりゆきよいってよいでしょう。
今回は誕生から鎌倉時代までの平泉寺をみてきました。
次回は、南北朝時代に新田義貞と戦うまでになった平泉寺をみてみましょう。
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