前回は、勝山藩小笠原家の悲願となった勝山城再建の行方をみてきました。
勝山城再建に苦慮している間にも勝山では、商品経済の浸透もあいまって、地域の姿が徐々に変貌しつつあったのです。
そこで今回は、そのことを端的にしめす大杉沢騒動についてみていきましょう。
大杉沢騒動
文化8年(1811)3月5日から7日にかけて、最高で二千人もの「蓑虫」とよばれる蓑笠をつけた農民が群衆となって、勝山町へ打ちこわしを行いました。
滝波村近くの鷹嶋川原に集まったのは勝山領の農民を中心に、郡上藩領、天領のものも加わって、夜ごと町の豪商を襲ったのです。
寛政大杉沢騒動
じつは、文化の大杉沢騒動には15年ほど前に起こった騒動が背景にありました。
大杉沢というのは、勝山町の東側で法恩寺山にかけての山林で、通称奥山とよばれた奥深いところでした。
そして、この大杉沢は古来より魔所として畏れられた場所でもあったのです。
ところが、寛政8年(1796)に勝山町役人と町の材木商が結託して藩御許可をもらい受け、大杉沢の木を伐採しはじめたのです。
騒動勃発
人々が心配していたところ、6月に奥山から流れ出る浄土寺川が氾濫して下流一帯に大きな被害が出てしまいました。
そこで、水害を被った住民たちが怒って大杉沢に押しかけて木こりを追い払うとともに、切り出した材木を焼きはらったのです。
それでは到底おさまらず、翌日には城下に乱入して関係した町役人宅や材木商の家を打こわしを行いました。
この事態に慌てた藩は、大杉沢での材木伐採を禁止するとともに、材木商たちを処罰して事態を収束させたのです。
材木商の反撃
ようやく事態は収まったものの、違法行為をしたわけではないのに、大きな損失を被ったわけですから、納得いかないのが処罰された材木商たちでした。
はなはだ不満を持った彼らは、再び藩役人に取り入って、材木の切り出しを再開したのです。
おり悪く、そのころ天候不順が続いていましたので、人々は大杉沢に住む魔物の祟りではないかと噂しあうようになります。
騒動再燃
不安が高じる中、ついに農民たちが行動を起こしたのが、冒頭でみた打ちこわしだったのです。
初日の城下乱入は不意で備えることができませんでした。
しかし続く二度目に対して藩は評定を重ねるものの、武力で鎮圧するのはむつかしく、打つ手なしといったところ。
そこへ、町方から自警団をつくって城下乱入を防ぎたいという申し出があって、渡りに船と藩が町方と共同で町を防備することになったのです。
第二夜の攻防
はたしてその夜、再び一揆勢が街に詰め掛けてきました。
竹やりで武装した町の自警団が「蓑虫」軍団に立ちふさがりますが、藩・町方連合三千に対して一揆勢は幾万とも知れぬ大軍。
これに恐れをなした奉行が早々に撤退すると、戦わずして町方は総崩れとなり、散々に打こわしされてしまいました。
第三夜
さらに打ちこわしが続く気配に、藩は評定を重ねますが打つ手があろうはずもありません。
そこへ今度は城下の触頭尊光寺はじめ一向宗寺院の僧侶たちが仲介役を申し出ました。
藩がこれを認めると、三日目の夜、僧たちは一揆の中に乗り込んで、ひたすら鎮静するよう説得したのです。
しかも僧たちは尊光寺の本尊阿弥陀仏を先頭に建てて、この騒動が仏道からみて誤りであると断言したうえで、「仏心のふかきを思ひやり。弥陀如来四拾八願の大願にすがり、永き未来の苦げんをのがれ給ふかかんやうならん」と農民たちの真摯な信仰心をたくみに誘導しつつ説得にあたったのでした。
しかも、その背後には町役人と豪商たちが羽織袴姿で平伏していたのです。
騒動の終結
僧たちの説得に、「蓑虫」たちは三カ条をのむことを条件に事態を収束させます。
その三カ条とは、大杉沢で杉木の伐採を行わないこと、奥山で炭焼きをしないこと、そして「町方に於て諸色の値段致させ申間敷事」。
この条文、一見すると一揆の原因となった大杉沢の開発と関係がありません。
しかし、ここに騒動の背景には積み重なった社会の矛盾と、大きな時代の変化があったのです。
次回は大杉沢騒動の背景を探ってみましょう。
コメントを残す