前回は、小笠原長育が暮らした牛込北町邸をみてきました。
今回は、牛込袋町にあった小笠原富喜親子が暮らした袋町邸についてみてみましょう。
小笠原子爵家袋町邸
小笠原子爵家当主の牧四郎が、芝区芝公園11ノ7の邸宅で大正14年(1925)11月30日午前零時35分に急逝してしまいます。
こうして夫・牧四郎が33歳の若さで没すると、妻の富喜は2歳の長女恵美と襲爵した赤ん坊の長男・長定を抱えて暮らすことになりました。
これまで小笠原子爵家を支援してくれていた若尾家も、もはや誰の目にも凋落は明らかで、頼ることはできません。
そこで富喜は、実家の越前国大野藩土井子爵家をたよって牛込区袋町の邸宅へと移ります。
大野土井子爵家は、父の利剛と跡を継いだ兄の利康が相次いで亡くなりましたが、母で夫牧四郎の叔母・麗子はまだ健在でした。
土井利章
まず富喜は、大正14年(1925)1月29日に生まれたばかりで1歳にも満たない赤ん坊の長男の長定に、12月28日家督を継がせて小笠原子爵家の断絶を防ぎます。
そして、旧大野藩土井子爵家の当主となった弟の利章のもとで子供たちを育成することに全力を注いだのです。
ちなみに、土井子爵家は中規模の資産家華族で、当主の利章は富喜の弟でした。
利章は学習院を出たあとアメリカに留学した経験を持つ進歩的な人物。
昭和9年(1934)からは自由学園男子部講師を務めるかたわら、日本レンズ工業株式会社専務取締役についていました。(『議会制度七十年史』『人事興信録』第13版・第14版)
富喜の子育て
この利章から、富喜は強く影響を受けながら、恵美と長定の兄弟を育てていきます。
しかし、利章は昭和9年(1934)ころに本邸を東京市麹町区上二番町1番地に移しています。(『華族名簿 昭和9年5月20日調』華族会館、1934)
しかし富喜は、袋町から離れることはありませんでした。
昭和11年(1936)撮影空中写真(国土地理院Webサイト、B7-C1-11)で牛込区袋町付近をみると、町の南半分にあたる部分の大半が空き地になっているのが確認できます。
これは土井子爵家が本邸を移転させたあとに旧邸宅を取り壊して、家作に作り替えるところとみられます。
じっさい、昭和17年(1942)撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、C29D-C1-22)で牛込区袋町付近をみると、前にみた空き地はすっかりなくなって、植栽を持つ住宅が建ちならぶ様子がみてとれるのです。
このことからすると、昭和11年(1936)時点で、敷地の南西角に立っている古い住宅か、新坂に沿って新たに建てられた2棟のいずれかが小笠原子爵家の邸宅とみてよいでしょう。
私見では、富喜が早くから土井家とは別棟に住んでいたと思いますので、敷地角の家が有力ではないかとみています。
こうして富喜は、実家の土井子爵家に頼りつつも、少しでも自立する道を探っていたのではないでしょうか。
山手空襲
その後、太平洋戦争がはじまると、子どもたちを守り育てる富喜にも影響が及びます。
昭和22年(1947)撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M698-100)で袋町付近をみてみると、かつての土井子爵家家作がすべて焼失して焼け野が原となっているのがわかります。
かつての地所に二三棟白っぽく見える建物が確認できますが、これらはいずれも空襲後に建てられたもの。
したがって、富喜親子の暮らしていた邸宅も、山手空襲によって焼失したとみて間違いないでしょう。
終戦前後には、幼かった恵美と長定の兄弟も、すでに成人して自由学園を卒業したとみられます。
富喜の奮闘で、小笠原子爵家の末裔たちは、新しい時代に踏み出せるまでになっていたのです。
小笠原子爵家袋町邸を歩く
それでは中町公園を出発して散策に戻りましょう。
先ほどの小さい四つ角まで戻り、今度は南へと進んでください。
50mほど進むと、右手に道が枝分かれする丁字路がみえてきますので、これを曲がって東方向に進みます。
ちなみに、この曲がり角が土井子爵家地所の南西隅にあたる場所で、私が小笠原子爵邸があったとみているところです。
現在は高級マンションが建っていますが、戦前までさかのぼるような遺構は見られません。
しかし、道沿いに石垣がみられるところは、土井子爵家家作の雰囲気を意識しているのかもしれません。
牛込城跡
今歩いている新坂は、崖上となって右に折れて進むのですが、土井子爵家の地所もこのあたりまでですので、今度は小さな四つ角を北方向に曲がりましょう。
すると、ゆるい下り坂の向こうに立ちはだかる崖がみえてきました。
旧土井子爵家地所の北東隅まで行くと、この崖は高さが3m近くにまでなっていて、それはまさに壁といえるもの。
じつはこの崖を利用したのが牛込城です。
いまみている南と、東、北の三方を崖に囲まれた地形を利用して築かれた城でした。
築城は大永4年(1524)大胡重行によるとされています。
重行の子勝行は北条氏康の重臣となり牛込氏を名乗るようになりました。
牛込氏の居館は現在の光照寺付近にあったといわれていて、大手門が神楽坂、裏門が先ほど見た大田南畝旧宅跡地横の四つ角付近にあったといわれています。
この牛込城は江戸城の出城の役割を果たしていたようですが、小田原の陣で徳川家康が配下の戸田忠次に命じて江戸城を攻めさせ、天正18年(1590)4月22日に落城しています。
その前後に牛込氏は秀吉に帰順して領国を安堵されたようで、家康の江戸入府のころ、牛込氏は徳川家の旗本に取り立てられたのでした。
そして江戸開府に伴って牛込城は廃城となったのです。
司天台
『御府内備考』によると、地蔵坂の上半町ほど西の方に天文屋敷が置かれていました。
これは牛込城跡地のうち、光照寺ちかくにあたっています。
明和2年(1782)佐々木文次郎という元御徒歩組頭が天文の術にたけているため、召し出してこの場所に司天台をつくらせたのでした。
これは、元禄2年(1689)に渋川春海が創設したものを再興したものです。
その後、吉田靭負が引き継ぎますが、この場所は地形上の制約で西南方向が観測しづらいことから、天明2年(1782)に浅草鳥越へと移転しました。
牛込城の南崖が、土井子爵家地所の北端にあたっていますので、これに沿って西方向に進みましょう。
このあたりにところどころですが、昭和初期のものとみられる石積がみられ、あるいは土井子爵家の地所と関連する遺構なのかもしれません。
坂を上ると、中町公園に向かう四つ角に再び出てきました。
今度はこれを北方向に曲がって進み、袖摺坂を下ると、スタート地点の都営大江戸線牛込神楽坂駅A2出口に戻ってきました。
散策コースはおよそ1km、アップダウンの多い行程です。
もし足に余裕のある方は、新宿区指定史跡・尾崎紅葉旧居跡や、石畳の路地・兵庫横丁、人気観光スポットの神楽坂などへ足を延ばしてみてはいかがでしょうか。
なかでも、大久保通りを挟んだ反対側にある横寺町の新宿区指定史跡・尾崎紅葉旧居跡はおススメです。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
『新撰東京名所図会』
『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市区調査会 編集・発行1912
『東京の三十年』田山花袋(博文館、1917)
『牛込区全図市区改正番地入』三井乙蔵(三英社、1921)
『華族名簿 昭和9年5月20日調』華族会館、1934
『人事興信録 第14版下』人事興信所 編集・発行1943
『人事興信録 第15版下』人事興信所 編集・発行1948
『議会制度七十年史 第1 貴族院議員名鑑』衆議院・参議院編(大蔵省印刷局(印刷)、1960『東京市史稿 市街編49』東京都 編集・発行、1960
『東京の坂道-生きている江戸の歴史-』石川悌二(新人物往来社、1971)
『新宿区の散歩道-その歴史を訪ねて-』芳賀善次郎(三交社、1972)
『江戸文学地名辞典』浜田義一郎 編(東京堂出版、1973)
『新宿区町名誌』東京都新宿区教育委員会 編集・発行1976
『日本近代文学大事典』日本近代文学館・小田切進 編(講談社、1977)
『東京文学地名辞典』槌田満文 編(東京堂出版、1978)
『角川日本地名大辞典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)
『平成新修旧華族家系大成』上・下巻、霞会館華族家系大成編輯委員会 編(霞会館、1996)『日本歴史地名大系 第13巻東京都の地名』平凡社地方資料センター編(平凡社、2002)
国土地理院Webサイト、新宿区観光協会Webサイト、宮城道雄記念館Webサイト
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