立花道雪【筑後国柳川藩立花家(福岡県)5】

前回は、柳川の誕生から天正の大友軍襲来までをみてきました。

この中で立花道雪が出てきましたが、そもそも立花家ってどういう家柄なのでしょうか。

そこで今回は、立花家のはじまりと立花道雪についてみてみましょう。

立花家のはじまり

ところで、立花家とはどのような家柄なのでしょうか。

ここで、立花家の始まりをみるために、少し時代をさかのぼってみましょう。

豊後国の守護・大友氏は、石築地(元寇防塁)の警固を担当していた香椎方面をはじめ、鎌倉幕府打倒の恩賞として博多湾一帯に所領をえました。

蒙古襲来合戦絵巻④国立国会図書館デジタルコレクションの画像。
【元寇防塁(蒙古襲来合戦絵巻④国立国会図書館デジタルコレクション)】

そこで、豊後守護大友左近将監貞宗の長子・大友貞載(さだとし)を筑前に派遣します。

そして、建武年間(1334~38)に筑前国糟屋郡香椎郷、現在の福岡市東区下原と糟屋郡新宮町・久山町の境である立花山に立花山城を築いて、立花の姓を名乗るようになったのです。

その後、立花氏は大友氏の一族被官として代々立花山城を居城として重きをなしていました。

福岡県立花山付近、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M105-61〔部分〕) の画像。
【福岡県立花山付近、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M105-61〔部分〕) 】
立花山城石垣(Heartoftheworld 撮影、Wikipediaより20211205ダウンロード)の画像。
【立花山城石垣(Heartoftheworld 撮影、Wikipediaより)】

立花家滅亡

ところが、立花山城の周辺で大友氏と毛利氏が博多をめぐって激しく戦うようになると、七代鑑載(あきとし)が毛利氏に走り、主家の大友義鎮(宗麟)に反乱を起こします。

そして永禄11年(1568)8月14日に鑑載は宗麟に攻められて自害して立花家は滅亡したのです。

その後、大友氏一族の戸次鑑連(道雪)は宗麟の命により立花家の名跡を継ぎました。

立花道雪

ここで立花道雪についてみてみましょう。

立花道雪(Wikipediaより20211205ダウンロード)の画像。
【立花道雪(Wikipediaより)】

立花道雪(1516~1585)は本名戸次鑑連(べっき あきつら)で、道雪は法号です。

大友氏の一族被官であった戸次親家の子として永正13年(1516)に生まれました。

大友義鑑のもとで豊前において大内氏勢と戦ったり、肥後や筑前でも戦って数々の武功をあげています。

大友義鎮(宗麟)の家督相続に尽力し、大友家重臣として筑前や豊前進出を狙う毛利氏に対して各地で転戦しました。

前にみたように、永禄11年(1568)には毛利家に走った立花鑑載を破って毛利氏の進出を阻止しています。

その後も毛利氏や、新興大名の龍造寺氏と筑前や筑後を転戦して、不敗の軍神、廉直賢才と称されるまでになったのです。

そんな中、龍造寺家と筑後で戦っていたさなかの天正13年(1585)9月、筑後国高良山(現在の福岡県久留米市御井町)の陣中で没しています。

この道雪は、男児がなかったために、娘の誾千代(ぎんちよ)に大友家の重臣・高橋紹運の長男・統虎(むねとら)を婿に迎えて家督を譲りました。

ここまで立花家のはじまりから立花道雪までをみてきました。

次回は、道雪の跡を継いだ宗茂についてみてみましょう。

《今回の記事は、『福岡県史』『旧柳川藩誌』『角川日本地名大辞典』『福岡県の歴史』『国史大辞典』をもとに執筆しました。》

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