前回みたように、田中家は二代にわたって柳川に多くの遺産を築き上げました。
田中家改易のあと、これを柳川に復帰した立花家が受け継ぐこととなったのです。
そこで今回は、柳川に復帰した立花宗茂と、その跡を継いだ二代忠茂の時代をみてみましょう。
立花宗茂の柳川復帰
前にみたように、関ケ原で西軍につき改易された立花宗茂は、苦難の末に元和6年(1620)11月、筑後国山門・三池の二郡と、上妻・下妻・三瀦三郡の一部の、10万9,600石余を与えられて、旧領柳川へ復帰しました。
宗茂は元和7年(1621)に柳川に入ると、翌年にかけて領地高の改定作業を行った結果、14万石余の内検高を決定します。
そして棚倉でも仕えていた譜代家臣とともに、関ケ原後の改易時に熊本藩主加藤清正にあずけていた家臣や、浪人となっていた家臣を召し抱えて家臣としたのです。
このため、かつて柳川を領していたころの立花家にちかい家臣団が生まれましたが、逆にあらたに召し抱えた家臣はほとんどいませんでした。
その後、宗茂は二代将軍秀忠の相伴衆となり、茶の湯や能楽を嗜みます。
そして寛永14年(1637)4月に宗茂は家督を養嗣子の忠茂に譲り隠居生活に入りました。
柳川藩立花家
こうして立花家は、柳川藩祖宗茂から現代まで、連綿と続くことになったのです。
まずは歴代当主の名前から、その流れを一気に見てみましょう。
宗茂―忠茂―鑑虎―鑑任―貞俶―貞則―鑑通―鑑寿―鑑賢―鑑広―鑑備―鑑寛(明治維新)―寛治(伯爵に叙位)―鑑德(終戦)―和雄―宗鑑―宗和
二代 忠茂(ただしげ・1612~1675)
慶長17年(1612)7月7日、筑後国内山城主立花直次(高橋統増)の四男として生まれ、生母は岡道甫の娘です。
誕生と同様に叔父立花宗茂の養嗣子となり、元和8年2月将軍秀忠の前で元服し、諱字を下賜されて忠貞と名乗り、従五位下左近将監に叙任されました。
そしてこの時に、名刀左文字を下賜されています。
のちに名を忠茂と改めて、寛永14年(1637)4月、養父宗茂の隠居に伴って家督を相続しました。
忠茂の治世
忠茂が藩主となった寛永期(1624~45)は、まだまだ戦国の遺風が残り、幕府権力も確立途中で、政情に不安定さが残っていました。
就任した寛永14年(1637)10月には島原の乱がおこり、忠茂自ら藩兵をひきいて出陣しています。
また、正保4年(1647)6月に、ポルトガル船二艘が長崎に入港した折にも、藩兵を派遣しました。
また、明暦元年(1655)8月21日には朝鮮通信使接待のため出役を命じられるなど、幕府から役目が命じられると積極的に応じて恭順姿勢を見せています。
藩政確立に向けて
いっぽうで忠茂は、戦の時代から太平の世へと変わる中で、藩政の確立に努めました。
寛政17年(1640)9月「諸士戒分条目」を発布するとともに、万治元年(1658)藩士の知行制を蔵米制に改めています。
また、田中氏時代にキリスト教へ寛容だった影響を払拭するために、正保3年(1646)には藩士のうち、キリスト教を信じるもの83人に暇を与え、幕府の禁教策に追従しました。
さらに、立花家の家風である武芸を奨励するだけでなく、朱子学者安東省庵を侍講に登用して知行200石を与えたことをはじめ、夫人ともども和歌を好み歌集『別峰院御詠草』を残すなど、文教にも心を配っています。
なかでも、省庵は「関西の巨儒」と呼ばれるほどの儒学者となり、「柳川藩学問の祖」となるのですが、それは「藩校伝習館」の項でみることにしましょう。
忠茂は、在任27年後の寛文4年(1664)閏5月に隠居して好雪と号し、延宝3年(1675)9月19日、64歳で死去しました。
次回は、忠茂治世の大きな出来事、島原の乱についてみていきましょう。
《今回の記事は『福岡県史』『旧柳川藩誌』『福岡県の歴史』『三百藩藩主人名事典』『江戸時代全大名家事典』にもとづいて執筆しました。》
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