前回は、柳川に戻った立花宗茂と、その跡を継いだ二代忠茂の時代を大まかにみてきました。
そこで今回は、忠茂治世の二つの大きな事件、島原の乱と正保のポルトガル船来航のうち、島原の乱についてみてみましょう。
島原の乱勃発
しかし、藩主についた寛永14年(1637)には、天草・島原のキリシタンが一揆して島原の乱がおこったのです。
というのも、島原半島南部を領する島原藩は、過酷な年貢を取り立てたために、キリシタンを中心とする農民たちが蜂起して、島原城下に迫りました。
おなじころ、唐津藩領の肥後国天草でも島原に呼応して農民が蜂起すると、島原勢と合流して富岡城を包囲します。
柳川藩出陣
こうして島原の乱が発生すると、島原と唐津両藩は、幕府にこれを報告するとともに、近隣諸藩に救援を依頼しました。
幕府からも久留米・柳川・佐賀・熊本の四藩に救援を命じると、一揆軍は原城に立てこもります。
そして将軍家光の命により、隠居の養父・宗茂とともに忠宗は自ら藩兵を率いて出陣したのです。
しかし、総勢2万7,000人ともいわれる一揆軍の抵抗はすさまじいものでした。
寛永14年(1637)12月の総攻撃は失敗し、柳川と佐賀両藩は多くの死傷者を出したのです。
さらに寛永15年(1638)正月の総攻撃では、幕府から派遣された板倉重昌が銃撃により死亡するなど、鎮圧軍は苦戦を強いられました。
原城落城
板倉の後派遣された松平信綱は、戦術を持久戦に変更するとともに、西国大名に出陣を命じて十数万という大軍で原城を包囲しました。
柳川藩も水陸から包囲に参加、三か月近い包囲戦を行って、城内の食糧や弾薬の欠乏を待ったのです。
そして満を持して行われた2月28日の総攻撃には、忠茂自ら原城に攻め入る活躍をみせて、原城を落城させることに成功します。
一揆勢はほぼ全員が殺害されて、完全に乱が鎮圧されると、ようやく柳川藩は3月2日に帰郷しました。
しかし参戦の代償も大きく、家臣のうち死者181人、負傷者779人となっています。
島原の乱で九州諸藩は、人的損害はもちろん、扶持米などの物資の供給でも大きな支出を要したことで、経済的にも打撃を受けたのはいうまでもありません。
柳川藩もまた、おおきな損害を被ることとなりましたが、その一方で幕府からの信任も厚くなったのです。
次回は、外国との唯一の窓口に定められた長崎に起こった大事件、正保のポルトガル船来航についてみてみましょう。
《今回の記事は『福岡県史』『旧柳川藩誌』『福岡県の歴史』『三百藩藩主人名事典』『国史大辞典』にもとづいて執筆しました。》
コメントを残す