前回、柳川藩における有明海干拓についてみてきました。
干拓事業の成功には田尻総馬の存在が不可欠だったのです。
そこで今回は、この田尻総馬の事績をみてみましょう。
田尻総馬とは
前回みたように、柳川藩の干拓事業は江戸中期の元禄から延享にかけて最盛期を迎えました。
なかでも、藩の事業として干拓が進められたみやま市の黒崎開は200町歩にもおよぶ最大級のものです。
ところが黒崎開の堤防は、正徳3年(1713)に高潮によって決壊してしまいます。
そこで翌正徳4年(1714)には田尻総馬(たじり そうま・1670~1760)によって堤防の修築工事が行われました。
この田尻総馬は、この時代に佐賀藩の成富兵庫助、熊本藩の堤平左衛門と並び称されて、九州土木の三傑とたたえられるほどの業績を上げました。
田尻総馬の父総助は、元禄年間(1688~1704)に精密な領内絵図を作成、元禄10年には普請方として藩主別邸御花畠(お花)と名園「集景亭」をつくった人物です。
矢部川土居築堤工事
総馬は、元禄8年(1695)に父総助を主任とする矢部川土居築堤工事で助手を務めて名をあげました。
この工事をはじめるにあたって、総馬は洪水時に「半切り」という桶に乗って激流を下り、流勢を把握、「総馬羽根」を築いて流れの緩急を調整したといいます。
また、堤防には竹や樟などの樹木を植えて、堤防を強固にする工夫も施したのです。
こうして水害のたびに水没していた田を良田に変える成果をおさまましたが、いっぽうで、彼の指揮する築堤工事があまりにも過酷であったために、鬼奉行と恐れられたといいます。
このため、工事が完成した元禄14年(1701)には致仕して一時浪人になるものの、宝永6年(1709)2月26日に再び以前通りの給扶持で召し抱えられました。
総馬の事績
復帰した総馬は、まさに大車輪の働きをみせます。
正徳3年(1715)には先述の黒崎開堤防修築、享保2年(1717)には蒲池山溜池の築造、さらに藩営干拓事業にともなう三瀦御門の設営、享保7年(1722)瀬高川堀かえ工事といった事業を次々と成功させたのです。
この働きに対して藩主鑑任は、知行100石を給付したうえ、名刀裕貞を下賜しています。
そのほかにも、矢部川改修、磯鳥・唐尾・高碇井堰の新設、回水路建設、海岸の埋め立て、干拓用水の確保といったように、領内の治水や干拓など土木工事に辣腕を振るいました。
また総馬は、堤防をこれまでの土塁から石塁へと変えて強度を飛躍的に高めて干拓地から高潮被害をなくした功績は大きく、現在でも人々は感謝の意を忘れていません。
ここまで柳川藩の名普請役として名をはせた田尻総助についてみてきました。
次回は、総助たちが活躍した時代の少し後に起こった大事件をみてみましょう。
《有明海の干拓については、『福岡県史』『旧柳川藩誌』『福岡県の歴史』『三百藩家臣人名事典』『角川日本地名大辞典』『国史大辞典』にもとづいて執筆しました。》
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