前回は、柳川藩が参加した咸臨丸捕獲作戦をみてきました。
今回は、戊辰戦争の流れを一気に変えた太夫浜上陸作戦をみてみましょう。
北越戦争
慶応4年(1868)4月19日、すでに江戸入りしていた北陸道先鋒総督兼鎮撫使の高倉永祜が北陸道鎮撫総督兼会津征討総督に任じられると、四条隆平を副総督、黒田清隆(薩摩)と山県有朋(長州)が参謀に就きました。
そしてこの北陸道鎮撫総督のもとに薩摩・長州・加賀・富山・長府などの藩兵が配されたのです。
これに、衝峰隊を追撃してきた軍監・岩村精一郎率いる信州諸藩と尾張藩兵からなる東山道軍支隊が合流します。
新政府軍は信濃川に沿って小出島から小千谷を目指す部隊と、日本海に沿って柏崎から新潟を目指す部隊とに分かれて進撃を開始しました。
こうして閏4月27日に先端が開かれると、小出島や鯨波で新政府軍が勝利し、新政府軍の優勢で状況は推移します。
長岡藩参戦
ところが、5月に入って長岡藩が同盟軍に加わると戦況は一変し、一進一退の攻防を繰り返すことになりました。
参謀山県有朋は、越後を東西に横断するまで戦線を拡大、これをそのまま大量の兵力によって維持しながら、次第に押し上げていく作戦をとったのです。
このため、新政府は予定を大幅に上回る兵力を投入するものの戦線は膠着し、7月を迎えました。
太夫浜上陸作戦前夜
この状況を打破するため、新政府軍は新たな作戦を実行する決断を下します。
結果的に、これが北越戦争の帰趨を決定づけることになりました。
7月27日、新潟の北方約10㎞にある阿賀野川河口近くの太夫浜(現在の新潟市北区太夫浜町)付近に、新政府軍が上陸したのです。
参謀黒田清隆が率いる薩摩・長州・広島などの藩兵約1,000名が上陸部隊として編成されました。
この部隊が千別丸(柳川)と大鵬丸(福岡)に乗船、錫懐丸(加賀)と万年丸(広島)が物資を輸送、これを軍艦摂津(政府)と丁卯(長州)が護衛するという編成です。
艦隊は7月21日能登七尾を出港、23日には越後柏崎で陸兵が乗込んで、佐渡小木に一泊しました。
そして、24日半夜には徴発しておいた上陸用の漁船を曳航して小木を出港し、翌25日早朝に新潟を三里ほど過ぎた新発田領内松ヶ崎浜口に碇を下ろしたのです。
新発田藩の内応
敵前上陸は上陸時に無防備となるため、大損害を受けるリスクが高い作戦ですが、なぜ黒田はこの作戦を選択したのでしょうか?
じつは上陸地点は新発田藩領で、新発田藩は内応していたのです。
そのため、新政府軍はなんの抵抗もなく陸兵は太夫浜付近に上陸、そのまま新発田藩兵を先鋒として信濃川を渡りました。
さらに、前線の背後に回り込んで新潟を総攻撃して制圧に成功します。(「9月2日薩摩藩届書写」『太政官日誌 慶応4年戊辰秋9月 第76号』)
北越戦争終結
そのまま勢いに乗った上陸軍は、新発田周辺の要地を次々に占領、さらに三根山・村松両藩を下しました。
この作戦により、およそ60㎞南方で東西に展開して新政府軍と対峙していた同盟軍は、後方を遮断されて退路を失い、総崩れとなったのです。
こうして同盟軍は越後から撤退し、最後の拠点・村上城が8月11日に落城して北越戦争は終結します。
今回は、北越戦争で膠着した戦線が太、夫浜上陸作戦で一気に状況が打破されて戦争終結に向かうところをみてきました。
そこで次回は、再び会津の若松城攻防戦へ目を転じてみましょう。
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