丹鶴城の想い出【紀伊国新宮水野家(和歌山県)10】

前回は新宮城の築城から現代にいたるまでの歴史をみてきました。

そこで次回は、新宮城(丹鶴城)の構造と、新宮の人々が寄せる想いをみてみましょう。

浅野家新宮城の構造

浅野忠吉に築かれた新宮城は、本丸・二の丸・二の丸段などからなる平山城で、城門6,櫓門5,二層櫓4,単層櫓9と、下屋敷、侍屋敷を配するものでした。

本丸には大天守と小天守が築かれて、大天守は9間四方、小天守は3間×4間で、複合式天守の形式をとっていました。

ところが、この新宮城の完成間近になって、浅野忠吉は三原へ国替えとなったのです。

水野重央(重仲)(Wikipediaより220210ダウンロード)の画像。
【水野重央(重仲)(Wikipediaより)】

新宮城の完成

浅野忠吉に代わって元和5年(1619)7月19日に、水野重央(重仲)が浜松から新宮へ入国します。

築城工事は水野家によって引き継がれ、寛文7年(1667)、水野家三代重上の代に、石塁などの増築が完成して、ようやく城は完成しました。

新宮城の規模と構造

新宮城の規模は、東西180間(約324m)、南北110間(約198m)、周囲540間(約972m)。

縄張りは、本丸を中心に、その南西に鐘の丸、北東に松の丸、さらに、これら曲輪の下に二の丸を配しています。

城の北は熊野川が天然の堀となり、南は日和山の丘が塁壁となり、さらに南には東西75間(約135m)、南北45間(約81m)、深さ1間半(約5m)のため池を築きました。

紀州新宮城図(『日本古城絵図』南海道之部、国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【紀州新宮城図『日本古城絵図』南海道之部、国立国会図書館デジタルコレクション 】
新宮城址、平成23年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKK20113X-C10-26〔部分〕) の画像。
【新宮城址、平成23年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKK20113X-C10-26〔部分〕)】

いっぽう、城の北には水の手を置き、船の出入りがしやすいようにしたうえで蔵を設けました。

さらに城の西側に侍屋敷を配して、水際の丘と平地を巧みに利用した縄張りとなっています。

新宮城の建造物

建造物は、本丸の天守を中心に、40余の門や櫓が白壁の塀で結ばれていました。

その天守は、5間×8間の三層白亜で、三層五階とする説が有力です。

ここで、浅野忠吉が築いた城と、水野家の城とをくらべてみましょう。

忠吉の二の丸が鐘の丸となったこと、これに付随して松の丸が築かれたこと、一部の堀の位置が異なることと、あまり大きな違いはありません。

丹鶴城への想い

新宮出身の佐藤春夫は、故郷への思いを込めて新宮城跡を詠いました。

最後に、この作品をみてみましょう。

佐藤春夫((角川書店『昭和文学全集39巻(1954年6月発行)』、Wikipediaより20220212ダウンロード)の画像。
【佐藤春夫(角川書店『昭和文学全集39巻(1954年6月発行)』、Wikipediaより】

佐藤春夫「古城にうたう 丹鶴城」

これは水野氏の丹鶴城

昔は三万六千石

今はわが父の裏山つづき

少年のわがよき遊び場

竹を切り木の枝に攀ぢ

蝶を追ひ小鳥を捕りき

本丸は茅花ほおけて

笹原に鶯啼きぬ

蔦もみぢ石垣ゆるみ

わが友のいま二の丸に

営めるホテルあり

風光を天下に誇る

多謝すわがお城山

美をわれにむかし教へき

柏亭は「滞船」を描き

われが師与謝野の大人は

なつかしくここに歌へり

聞けや君清きしらべを

碑に彫らまほしきは

「高く立ち秋の熊野の海を見て誰ぞ涙す城の夕べに」

丹鶴城址(『新宮町郷土誌』和歌山県東牟婁郡教育会第一部会 編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【丹鶴城址『新宮町郷土誌』和歌山県東牟婁郡教育会第一部会 編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション】

ここまで新宮城についてみてきました。

そこで次回からは、新宮藩水野家の歴史をみていきたいと思います。

まずは水野家がどのような歴史があるのか、そのはじまりからみてみましょう。

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