征長軍再進撃【紀伊国新宮水野家(和歌山県)29】

前回は、本庄宗秀の止戦秘密交渉で訪れた水野忠幹率いる新宮・和歌山藩軍が撤退し、実質的停戦が訪れるところをみてきました。

そこで今回は、征長軍先鋒総督に復帰した紀州徳川家徳川茂承の命を受け、再び進撃する忠幹をみてみましょう。

征長軍再進撃

征長軍は茂承が辞表を撤回しましたが、同時に将軍家茂が危篤状態にあり明日をも知れぬ体であることを知りました。

その直後、慶応2年(1866)7月20日に家茂が死去したとの知らせが茂承に届きます。

この情報が伝わって征長軍の指揮が低下することを恐れた茂承は、なんとか情報が広まる前に征長を成し遂げようと強硬策に転じたのです。

徳川家茂(Wikipediaより20211212ダウンロード)の画像。
【第14代将軍徳川家茂(Wikipediaより) かつて水野忠央が擁立した徳川慶福です。】

7月20日には全軍に進撃命令を下し、最前線の井口には水野忠幹指揮の下、水野・和歌山藩軍1,500、幕府陸軍2番隊800人、大垣藩軍500人が派遣されました。

また高井には彦根藩軍1,000人が派遣します。

これに加えて、幕府海軍の震天丸・旭日丸・砲台丸(和船に大砲を設置)・明光丸・翔鶴丸と広島の前戦力に支援を命じたのです。

征長軍は7月27日午後1時、佐伯郡串戸から上陸し、山をはさんで大野村の北にあたる宮内村に集結し、総攻撃の準備をはじめました。

余談になりますが、この時幕府海軍に属した震天丸は安芸国広島藩の持ち船で、のちに坂本龍馬に貸し与えられて、土佐藩への1,000挺のライフル銃の輸送に使われました。

また、明光丸は和歌山藩の持ち船で、こののち慶応3年(1867)4月23日に「いろは丸事件」を起こしたことで有名です。

長州軍の迎撃態勢

いっぽう、長州藩は、忠幹率いる軍の襲撃情報を得ていました。

そこで、迎え撃つ長州軍も7月28日に御楯隊全軍6個小隊、一新組一小隊が松ヶ原を出発して大野村に進み占拠します。

さらに、長州軍は各二個小隊を左右の山上に、二個小隊を本道に配置したうえ、斥候を宮内村との境にある中山峠に配しました。

これに加えて、遊撃隊臼砲は本道を進んで支援にあたり、良城隊は海岸に布陣して征長軍を待ち構えます。

7月28日大野村戦争

攻撃する征長軍は兵を三方向に分けて、幕府陸軍と彦根藩軍は西国街道から大野村へ進軍し、和歌山・大垣藩軍は海岸の地御前から三手に分かれて大野村を目指します。

そして忠幹は新宮軍を率いて山代口から長州軍に備えて北の明石村にむけて進む手筈となりました。

また、幕府海軍は軍艦二艘を小方村と玖波村に派遣して、長州軍の背後に回り込む作戦に出たのです。

幕府陸軍歩兵(Wikipediaより20220216ダウンロード)の画像。
【幕府陸軍歩兵(Wikipediaより)】

中山峠の激戦

午後1時、海側から山を越えた和歌山藩軍が中山峠に攻めかかりました。

そして峠を守備する御楯隊四個小隊と一新組一個小隊に山上から銃撃を仕掛けたのです。

これに対して長州軍も三か所に分かれて和歌山藩軍を迎え撃ち、激しい銃撃戦となります。

この激戦のなか、御楯隊二番小隊隊長河野亀太郎が銃弾に倒れます。

すると、副官にあたる押伍の任にあった入江次郎吉が変わって亀太郎の手旗をとって兵を指揮して進軍しました。

ところがこの入江も負傷して動けなくなると、嚮導に指名されていた吉野桜助が直ちに兵をまとめて進撃を続けたのです。

嚮導とは隊列変更の際に基準になる兵士のことで、一般兵のリーダー的役割を果たす兵士のこと。

この戦闘時における部隊指揮官の交代は、長州軍の指揮とバックアップ機能が見事に果たされていることから、長州軍の訓練度の高さと兵士一人一人の自覚の強さがわかります。

また、それと同時に、この戦闘の激しさを物語っているのです。

西国街道中山峠付近、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M184-1〔部分〕)の画像。
【西国街道中山峠付近、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、USA-M184-1〔部分〕)  画面中央を横切るのが西国街道で、和歌山軍は右下方向にある大野に向かって進撃しました。長州軍は画面中央の中山峠でこれを迎え撃ったのです。】

良城隊の救援

和歌山藩軍との激戦中に、西国街道本道を進んできた幕府歩兵と彦根藩軍が攻撃に加わって、御楯隊は窮地に追い込まれます。

そこで、海岸に布陣していた良城隊が、御楯隊からの要請を受けて救援に向かったのです。

良城隊は兵を二手に分けて、一・三番小隊はそのまま海岸近くの山に登り、五・七番小隊は北にある山に回り込んで登って、それぞれ征長軍を山上から銃撃したのです。

さらに良城隊一・三番小隊は二手に分かれて進撃し、いっぽうは南にある山の頂に出て、もう一方は本道の南側山腹に移動して征長軍を銃撃し、御楯隊を支援します。

こうして激しい銃撃戦が続きましたが、薄暮になると海側の道の征長軍が撤退、さらに午後7時には和歌山藩軍が撤退して御楯隊が中山峠防衛に成功したのでした。

7月28日長州軍の被害

この日の戦いは芸州口戦争の中でも指折りの激戦となりました。

長州軍は御楯隊の全軍定員230人と一新組一小隊30人の合計260人足らず。

これに対する征長軍は、幕府陸軍800人、和歌山藩軍1,500人、彦根藩軍1,000人と合計3,300人で、10倍以上の差がありました。

彦根藩軍が旧式であることを考慮しても、この戦いを制したことは、長州軍の士気をさらに高めたことはいうまでもありません。

その一方で、この激戦により長州軍は戦死者7名、負傷者16名を出しましたが、御楯隊の被害が特に大きなものでした。。

戦死者は4名、軽傷を含む手負17名と、半数が御楯隊から出ていますが、その中には左足くるぶしに貫通銃創の深手を負った文豪芥川龍之介の実父・新原敏三もいたのです。

「芥川竜之介」(『日本探偵小説全集-第20篇(佐藤春夫、芥川竜之介)』改造社、1929 国立国会図書館デジタルコレクション)を拡大編集した画像。
【「芥川竜之介」『日本探偵小説全集-第20篇(佐藤春夫、芥川竜之介)』改造社、1929 国立国会図書館デジタルコレクション 芥川は、長州軍の一員として参戦した実父新原敏三について、ひそかに誇りに思っていたようです。】

こうして大野村奪還を目指した征長軍でしたが、正面の西国街道筋は突破できませんでした。

また忠幹の恐れた征長軍の裏手へ回り込む長州軍の作戦行動がなく、こちらは空振りとなったのです。

結果は征長軍の敗退となりましたが、勝利を急ぐ徳川茂承からの命を受けていますので、すぐさま再攻撃に移りました。

そこで次回は、征長軍のさらなる猛攻をみてみましょう。

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