前回は青森歩兵五聯隊による八甲田山雪中行軍計画が作られる背景についてみてきました。
この段階で決められた計画の大枠は、すでに致命的ともいえる問題点を複数抱えたものだったのです。
そこで今回は、作成された演習計画がどのようなものであったのか、みてみましょう。
編制
まず、演習軍の編成からみてみましょう。
明治35年(1902)1月23日早朝に屯営を出発する計画でした。
演習中隊の編成は、二大隊各中隊から集成された混成中隊で、編成は以下の通りです。
演習中隊長 神成大尉
中隊本部、炊事掛軍曹1,三等看護長1
第一小隊、小隊長伊藤格明中尉(五中隊)以下42名(五中隊下士卒41名)
第二小隊、小隊長鈴木守登少尉(六中隊)以下39名(六中隊下士卒38名)
第三小隊、小隊長大橋義信中尉(七中隊)以下42名(七中隊下士卒41名)
第四小隊、小隊長水野忠宣中尉(八中隊)以下42名(五中隊下士卒41名)
特別小隊、小隊長中野辨二郎中尉(八中隊)以下35名(第三年度長期下士候補生34名)
演習中隊は将校6名、下士卒194名の総員200名。
これに加えて編成外10名。
二大隊長山口鋠少佐、興津大尉(六中隊長)、倉石一大尉(八中隊長)、永井源吾三等軍医(三大隊)、佐藤勝輝特務曹長(五中隊)、小山田新特務曹長(六中隊)、長谷川特務曹長(七中隊)、今井米雄特務曹長(八中隊)、田中見習士官(七中隊)、今泉見習士官(八中隊)
この演習の総勢は、将校12名、准士官4名、下士卒194名の210名。
また、この演習において本隊が200名となっているのは、戦時編成としたからでした。
山口少佐は、教育委員首座としての参加としています。
ですから、山口少佐は、あくまでも教育委員首座として、見習士官と下士候補生を教育するために参加しているという立場でした。
ですから、本来の指揮官は神成大尉です。
いっぽうの山口少佐に指揮権はない総裁官なので、命令や指揮は総裁上必要最低限でなければならないのはいうまでもありません。
しかしのちに見るように、山口少佐はこの演習を実質的に直接指揮しましたので、これが事故の要因になったのは必然といえるでしょう。
演習計画の内容
ここで演習の計画で示さられた研究事項の分担をみてみましょう。
歩兵一大隊三本木まで進出するものとして
行李運搬の研究 鈴木少尉、
同宿営の研究 水野中尉、
同行進法の研究 大橋中尉、
衛兵の研究 田中見習士官、
炊嚢の研究 伊藤中尉、
携行すべき需要品の研究 中野中尉、
路上測図 今宮見習士官、
衛生上の研究 兵餉 防寒法 凍傷予防 疲労の景況 患者の処置となっています。
ただし、この分担は出発前日に示されたもので、準備期間がほとんどなかったことから考えると、実際に行われたかは不明とせざるをえません。
また、演習計画の要となる時間計画表は作成されたようですが、現存していません。
この異常な事態は、事故の責任を問われることを恐れた聯隊幹部によって、のちに隠滅された可能性が否定できないのです。
そもそも研究事項は任務の一部ですので、いかに演習が小さなものでも研究成果を報告する義務がります。
のちに見るように、水野中尉が行軍出発前日に実弟の水野直におくった葉書には、戦闘状況などを記録するための写真撮影に用いる器具について研究中であると記している事実とも整合しません。
ですので、この研究事項は、昨年の雪中行軍時のものを用いた可能性が高いことを確認しておきましょう。
ここまで演習計画のうち、編成と研究事項についてみてきました。
こうしてみると、演習計画のなかでも核になる時程表(行軍表)が問題になってきます。
しかし、公式文書には行軍結果があるだけで、時程表(行軍表)が欠落しています。
緊急事態ではなく演習ですので、必ず作成していたのは間違いありませんから、事件後に都合が悪い内容であったので削除した可能性が高いとみるほかありません。
そこで次回は、演習の装備についてみていくことにしましょう。
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