前回は八甲田山雪中行軍遭難事故につながる演習計画についてみてきました。
そこで今回は、演習の装備についてみていくことにしましょう。
装備
将校の被服は自弁だったので、良い生地を使ったり裏地を毛皮にしたりと多種多様、下着も柔らかくて軽い毛織物のネルが主となっていました。
いっぽう、下士以下は支給品で木綿。
これを重ね着して寒さに対応しましたが、綿製品は汗を吸収すると体に張り付いて体温を奪い、低体温症に陥る危険性があったのです。
水野中尉の装備
ここで水野中尉の服装をみておきましょう。
水野中尉の遺体は明治35年(1902)1月31日に捜索隊に発見され、2月1日夜に屯営に搬送されました。
遺族はすぐに遺体を確認されて、その時の様子が2月5日の報知新聞に「惨死将校水野中尉令弟の談話」に掲載されています。
「中尉は襯衣ズボン下各二枚に靴下三枚を着け軍服を着し実家より送られたる防寒衣を身に纏い足に藁靴を穿ちたる儘棒の如く真直に氷結し居られ」
水野中尉は靴下の上に直接わら靴を履いていた。
つまり、水野中尉は上衣こそ実家から送られた特性のものですが、下着類を重ね着して防寒に充てていたことがわかります。
注目すべきは、士官ですらわら靴だったことでしょう。
水野中尉のように、雪が解けて濡れたわら靴は、その後まもなく凍り付いて隊員たちの体力を容赦なく奪っていったのです。
族籍の問題
ここで無視できないのが族籍の問題です。
隊員は全員が平民であることはいうまでもないでしょう。
しかし将校についてみると、事情が違ってきます。
じっさい族籍は、華族は水野中尉のみで、将校では神成大尉と伊藤中尉が平民、そのほか山口少佐以下はみな士族だったのです。
同じ将校といえども、士族と平民とでは意識のうえで厳然とした身分格差が残っていました。
このことがのちに見るように、指揮系統に少なからず影響をあたえたのです。
物資の輸送
物資の輸送は、各小隊からの兵卒14名を輸送員とし、行李となる橇をけん引する要員としました。
橇には露営に必要な食料、燃料、資材などがつまれ積まれるのですが、その総重量はおよそ850kg。
これを橇14台に積み込み、さらに予備の橇2台を一台の橇に載せて、合計15台としています。
この行李は演習人数も多いことから規模が大きくなったことから、演習軍で大行李と呼ばれていました。
行李の食糧と燃料は一日分としては適切な量でしたが、「清酒二斗」が含まれて屋というから驚きです。
これは、兵一人当たり一合弱にあたる量で、生存者の証言にある「温泉に入って酒でも飲んでゆっくりやろう」と浮かれた気分だったことの査証といってよいでしょう。
輸送した物資からも、この演習の計画がずさんなものだったことがわかります。
こうして青森歩兵第五聯隊の演習軍は、いよいよ目的地の田代を知らないというずさん極まりない計画と、まったくの準備不足の状態で演習へ出発することになったのです。
そこで次回は、行軍初日の様子をみてみましょう。
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