前回みたように、ついにはじまってしまった演習軍の彷徨は、さらなる悲劇を引き起こします。
そこで今回は、水野忠宜中尉の死の状況をみてみましょう。
水野中尉斃れる
明治35年(1902)1月24日未明、演習軍が彷徨するなか、10人くらいの兵士が斃れたところで、ついに水野中尉が斃れました。
「落伍者が出る。かくするうちに水野子爵の子息水野少尉が歩行困難となってきたので、私が側へ行って何うしたかと問うてみたが、何も云わずにそのまま斃れた。水野少尉は平生、休日を利用して登山などして身体を鍛錬していたのが、将校中で一番早く死亡したので、山口少佐も驚いて鳴沢西南の窪地に露営することにした。」
生存した伊藤中尉の回想で、水野中尉の死はこのように記されています。
水野中尉の爵位を誤るほど、記憶が混乱しているということでしょうか。
こうして10人ほどの兵卒と水野中尉は雪中に斃れ、そのまま置き去りにされたのです。
新田次郎が描く水野中尉の死
ただ、『八甲田山死の彷徨』では、水野中尉をモデルとする小野中尉には従卒がいて、彼が介抱したとしています。
「小隊長殿、小隊長殿」
と叫ぶ従卒の声が、吹雪の合間に聞こえた。あたりは夜のように暗くなっていた。
「小隊長殿しっかりしてください、小隊長殿」
その声は半ば泣いていた。(『八甲田山死の彷徨』)
この表現は、中隊長であった水野中尉が斃れても、これに気を払う者すらない現実があまりにもむごいと感じたのか、あるいは映像を喚起させる悲劇のシーンとしたかったのか、その意図ははかれません。
いずれにせよ、小説よりも実際の行軍の方がより悲惨であることだけは確かなようです。
そのためか、映画ではこのシーンは全く描かれていません。
水野中尉の死の影響
ここまで部下の意見も聞かず、かたくなに前進を命じていた山口少佐ですが、華族水野中尉の死亡はさすがにこたえたようです。
とはいえ、行軍を止めるわけにもいかず、かといって行く方向が発見できたわけでもありません。
演習軍の将校たちの心に深い傷を残しつつも、水野中尉の死をもってしても、さまよう演習軍を止めることはできなかったのです。
隊員たちを襲う低体温症
阿部一等卒は隊員の異変を証言しています。
「行軍して二日目ごろから精神的に異状をきたすものが出ていた……わけのわからない叫びをはりあげて、雪中ヤブのなかに突進するものがいた、とたんに身体がスポッとはまって見えなくなる。手をあげて助けを求めると、雪が頭に落ちて完全に埋まってしまった。それでも、助けようというものはなかった」
こうした生存者の証言からみて、隊員たちは深刻な低体温症に陥ったとみられます。
低体温症が重くなると、錯乱状態におちいって歩行が困難となり、さらに悪化すると意識を失い、ついには心臓が停止するのです。(第47回「八甲田山の真実・水野男爵家編」参照)
演習軍には奇声を発する者、動けなくなるものが続出したうえに、実質指揮を執る山口少佐も低体温症で状況判断ができなくなっていたのでしょう。
こうして演習軍はすでに、普通に行動できる状態にはありませんでした。
極寒の夜
この日、青森測候所の記録では6時-9.8度、10時-10.6度、14時-12.8度、18時-12.2度と、この冬一番の寒さでした。
ここから推測すると、標高700mの第二露営地付近は-16~19度だったとみられます。
ちなみに、翌25日は、旭川で日本観測史上最低気温の-41度を記録しました。(気象庁Webサイト)
第二露営地
こうして行軍を停止した演習軍は二回目の夜を迎えます。
この時点ですでに、総員の四分の一を失った演習軍、しかしなおも八甲田の冬は容赦なく演習軍を攻め立てたのです。
「二日目の晩が一か所に集まりましてね……雪の中でじっとしていると死にますからね、そりゃどうしても体動かさなきゃならんです。足踏みしているんですね。それで疲れて倒れればそれっきりですね。」
小原伍長がこう回想するように、将兵は食料も燃料もない中でただただ寒さに耐えるだけ。
これはとても軍隊の露営と呼べるものではありません。
そしてこの第二露営地点に死者が集中する結果となったのです。
こうして演習軍はあてどもなくさまよい続け、ついに水野中尉が犠牲になりました。
次回は、映画のタイトルバックにも使われた神成中尉が咆哮する前後の状況をみてみましょう。
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