前回は、後継ぎを失った水野男爵家の様子をみてきました。
今回は、世界山岳史上最悪の犠牲者を出した事件の影響をみてみましょう。
八甲田弔行軍
八甲田山雪中行軍遭難事件のおよそ30年後、青森聯隊長として赴任した平田重三は、赴任の翌々日、西義一師団長よりこう言い渡されました。
「明春は八甲田遭難の三十年忌に相当するから、弔行軍を実施する予定だ、宜いだらうな。」
この弔行軍について、平田の記した『武士根性』平田重三(鶴書房、1942)からその様子をみてみましょう。
事件の原因を考慮して十分な準備を行ったうえで、事件から満30年に相当する昭和13年(1938)1月23日に事件当時の演習計画をそのまま実施すると報告し、その後一般に発表しました。
弔行軍実施前の昭和12年(1937)7月7日には盧溝橋事件が起こって日中戦争がはじまるという事態に直面します。
そんななか、行軍編成を大幅に変更して人員を三分の一にまで減少したうえで、訓練のやり直しまで行いましたが、この計画を中止することはありませんでした。
ここに青森歩兵五聯隊としての強い意志を感じずにはおれないのですが、それだけ五聯隊において遭難事件の傷が深いことがわかります。
演習が目前に迫ると、参加兵への父兄親族の面会人が激増し、参加兵と親子でひそかに水盃を交わすといったことが起こりました。
ここにも遭難事件の後に残る深い傷をうかがうことができるのですが、平田が計画を中止することはありません。
弔行軍出発
昭和13年(1938)1月23日、出発の朝は営内外が見送り人の旗で埋まる賑わいだったといいます。
まず幸畑の陸軍墓地で祈念祭を行った後、この弔行軍の発案者である三好一中将が参列し、遭難事件の生存者も見送りに駆けつけました。
弔行軍は天候にも恵まれて、その日のうちに田代に到着、二日目は集落に分宿し、三日目に三本木町に到着します。
三本木では全町挙げての大歓迎を受けつつ、無事に式場に到着。
夜に汽車で青森に帰還すると、ここでも全市あげての大歓迎で、それはあたかも凱旋将軍を迎えるような騒ぎだったといいます。
翌日には幸畑の陸軍墓地に参り、無事の帰還を報告して弔行軍は全員無事におわったのでした。
この事件30周年に行われた弔行軍は、事件の傷が青森歩兵第五聯隊はもちろん、事件に関係した各所に深く残っていることを教えてくれるのです。
新田次郎『八甲田山死の彷徨』
その後、第二次世界大戦や陸海軍の解体、さらには高度成長を迎える中で、八甲田山雪中行軍遭難事件は人々から次第に忘れられていきました。
そんななか発表されたのが、新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』です。
この小説は、明治35年(1902)に青森県八甲田山で起こった八甲田山雪中行軍遭難事件を題材としたもので、昭和46年(1971)に新潮社から書下ろしで発表されました。
ドクメンタリー作品に分類されることがあるこの作品ですが、あくまで新田の解釈や捜索を付け加えたフィクションで、実際の事件とはかなり様相が異なっています。
しかし緻密な描写は、青森県で新聞記者をしていた小笠原孤酒が長年にわたって取材したノンフィクション作品『吹雪の惨劇』や孤酒からの協力によるものでした。
気象庁に勤めた経験を持ち、山岳小説を得意とする新田ならではの所見もまた、この作品を魅力あるものにしているといってよいでしょう。
この作品は発表直後から話題となり、一大ブームを巻き起こすことになります。
映画「八甲田山」
新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』の大ヒットをうけて、作品の映画化が決定します。
映画は、新田の小説を原作として橋本プロダクション・東宝映画・シナノ企画が制作し、昭和52年(1977)に公開されました。
製作費が約7億円、製作期間3年という当時としては超大作。
主演の高倉健、北大路欣也をはじめ、前田吟、丹波哲郎、藤岡琢也、島田正吾、大滝秀治、東野英心、緒形拳、三国連太郎、加山雄三、小林桂樹、神山繁、加藤嘉、花沢徳衛といった名優がずらりと名を連ねる超豪華キャスト。
映画の内容からどうしても男性陣が多くなっていますが、栗原小巻、加賀まりこ、秋吉久美子、菅井きんと、女優陣も豪華です。
また映画には制作だけでなく、広告にも大量の資金が投入されて、「天は我々を見放した」などのキャッチコピーがテレビCMや駅ポスター、電車中刷り広告が町にあふれていました。
映画自体はあまりにも暗い内容でしたが、配給収入が23億円という大ヒットとなり、『日本沈没』を上回る当時の日本映画歴代配給収入新記録を打ち立てています。
ここまで八甲田山雪中行軍遭難事件の後の行われた弔行軍や小説と映画が巻き起こしたブームについてみてきました。
しかし、事件で嫡男を失った水野男爵家もまた深い傷を負っていたのです。
そこで次回は、水野男爵家の家督を継いだ水野重吉の時代をみてみましょう。
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