前回は奥平家でおこった奥平隼人と奥平内蔵允の騒動をみてきました。
はたして源八は父・内蔵允の無念を晴らすことができるでしょうか。
そこで今回は仇討ちのゆくえをみてみましょう。
仇討ちを決意
さて、浪人となった内蔵允の嫡男源八は、親類家臣ともども下野国芳賀郡深沢村に移り住みました。
そして源八はわずか12歳で、父の無念をおもい、寛文10年(1668)7月についに仇討ちを決意します。
いっぽう、江戸に落ち延びた隼人は、次々と住みかを変えて、源八たちに居場所をさとられません。
苦難の末、ようやく源八たちは、隼人が市ヶ谷浄瑠璃坂の戸田七之助屋敷の近くにいることを突き止めました。
この屋敷、浄瑠璃坂を上った先の丁字路を左に折れた先の奥まったところにあり、しかもその道は家の少し先で急な坂道になっていたのです。
屋敷の西側には崖があって、攻めるのが難しいいだけでなく、ちょっとわかりにくい場所。
そのうえ、この屋敷は門が北向きで10間ほどの長屋門があり、高い塀を二重に巡らしたうえに内側には溝を掘っていました。
さらに屋敷内にも塀でしきったうえ、抜け道をつくって隣家に設けた隠れ家につなぐなど、万全の防御を施します。
こうして要塞と化した屋敷に、隼人と一族家来は隠れ住んでいたのです。
討入り
ついに寛文12年(1670)年2月2日の夜、源八と親類主従一党は火消装束に身を固めて、隼人の屋敷を襲撃します。
その数、42名という大人数でした。
42人は白単衣に白鉢巻きの揃いの白装束に身を固め、各自松明を手に押し入ったのです。
松明には放置しても火事にならぬよう工夫を施し、沓の底には滑り止めの皮を貼りつけたうえ、武器は狭い室内での乱闘を想定して槍を置き、刀だけとする念の入れようでした。
討入り後ほどなくして、隼人の父・宗弥と叔父の次郎右衛門を討ち取り、手向かいした浪人者8人を殺害したのです。
しかしあいにくと隼人は不在、泊まり込みで碁を打ちに行っていたとも言いますが、隼人はそこまで甘い男ではありません。
討ち入りに気づくと、抜け道を使って隠れ家に逃げ込み、息を殺していたようです。
強風吹きすさぶ中、源八一党は隼人を探し求めますが、一向に見つからぬなかで手負いのものが出たうえ、夜が明け始めてしまったのです。
いつまでも長居できない源八たちは、やむを得ずもと来た道を引き返すことになったのです。
牛込土橋の戦い
そして牛込御門まできたときに、後ろから弓矢や槍をかまえた武士の一団が追いかけてきました。
目指す敵の隼人が武士たちを率いて襲ってきたのです。
ついに牛込土橋で再び斬り合いがはじまりました。
隼人方は矢を射かけて、槍を振り回して攻めかかってきます。
源八方は、手負いのものなどが離脱して人数が半数ほどでしたが、討ち入りで使わなかった槍を存分に使って反撃をおこなったのです。
戦いは士気の高い源八方が次第に優位となって隼人方を押し返してばらばらにしました。
そしてついに、隼人が外堀の中へ転げ落ちたところを、みごと源八が討ち果たして見事本会を遂げたのです。
源八の雄姿
このとき、2月3日の早朝、朝日きらめく頃でしたので、辺りは源八たちを一目見ようと見物人であふれかえっていたといいます。
これに加えて、騒乱を聞きつけて状況を見極めようと駆けつけた近隣の旗本も源八たちを見守っていたのです。
その時の源八は、角前髪、白の帷子の下に南蛮鉄の鎖帷子を着込んで、緞子のくくり袴の装束でした。
朝日に輝く源八は、露のしたたるごとき美少年で見物人たちをすっかり魅了したのです。
こうして仇討ちを成し遂げた源八一行は、浅草に引き揚げて自首するとともに、近江国彦根藩井伊家に口上書を差し出しました。
処分
老中たちが協議した結果、源八は仇討ちということで死罪一等を減じられて伊豆大島に流されます。
じつは討入りの背景には譜代大名・奥平家内部での派閥闘争があり、さらには大老・酒井雅樂頭忠清と譜代筆頭の大大名・彦根藩主井伊家との暗闘があったとも言います。
このような背景があって、討入り事件の後始末には大変時間がかかったのですが、それについてはのちに奥平家編でみることにしましょう。
こうして6年間の流人生活の末、源八は許されて井伊家に召し抱えられ、彦根に邸宅を賜わられて百人扶持を給されました。
また、源八一党もみな各藩に召し抱えられたといいます。
浄瑠璃坂で行われた敵討ちは、見事源八が父の無念を晴らすことができました。
事件発生から江戸っ子の心をつかんだ源八の敵討ちは、その後も影響を残していきます。
そこで次回は、浄瑠璃坂の仇討ちが後世に残した影響をみてみましょう。
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