新宮水野家浄瑠璃坂上屋敷【紀伊国新宮水野家(和歌山県)61】

前回まで浄瑠璃坂の仇討ちについてみてきました。

そこで今回は、新宮水野家浄瑠璃坂上屋敷についてあらためてみてみましょう。

新宮水野家浄瑠璃坂上屋敷

「武家屋敷名鑑」によると、寛文5年(1663)3月23日に、この地が新宮水野家上屋敷の要地として下賜されて以来、明治に至るまで上屋敷が置かれていました。

その敷地は安政2年(1855)時点で3,941坪をはかり、おそらく江戸時代を通じてほとんど変わっていません。

また、新宮水野家は紀州徳川家の付家老として在府となっていましたので、歴代の当主はこの場所を根拠としていました。

屋敷内部の構造は不明ですが、当時の上屋敷から類推すると、政務を行う御殿と、当主とその家族が暮らす屋敷があったとみられます。

江戸時代の早い時期から新宮水野家の上屋敷がこの地に置かれていたことから、他の水野家と区別するために「浄瑠璃坂水野」と呼ばれていたそうです。

新宮水野家市谷浄瑠璃坂上・中屋敷(「市ヶ谷牛込會圖」戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永4年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【新宮水野家市谷浄瑠璃坂上・中屋敷「市ヶ谷牛込會圖」戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永4年)国立国会図書館デジタルコレクション】

水野忠央

9代当主の水野忠央による、井伊直弼をはじめとする大名や幕府高官、文人墨客たちとの交流の舞台となった場所であり、のちに丹鶴叢書にまとめられる膨大な書籍を集めはじめたのもこの場所だったのではないでしょうか。

また、『新宮市史』によると、忠央は、こう公言してはばからなかったといいます。

「余の家臣にして内藤新宿と角甲を知らぬものはなし」

内藤新宿とは、この上屋敷から遠くない遊郭のこと、また角甲は浄瑠璃坂上屋敷裏にあった質屋のことを指しているとのこと。

殿様として家臣が遊郭に通い、金欠で質屋に通うと堂々と言い放つということは、それだけ家臣が世に通じていることを自慢したかったのでしょうか。

水野忠央(Wikipediaより20220215ダウンロード)の画像。
【水野忠央(Wikipediaより)】

その後、明治維新後に10代当主忠幹に下賜されるものの、まもなく忠幹はこれを処分して新宮水野家はこの地を離れたのです。(第35回「深川三好町時代」と第71回「新宮水野家深川三好町邸」参照)

処分された前後には、市谷砂土原町に編入されるとともに町地となって、広大な藩邸用地は分割されていきました。

現在は南半分は最初に見た日本福音ルーテル市ヶ谷教会と公益財団法人東京都予防医学協会本部ビルに、北半分は高級住宅地となっています。

浄瑠璃坂付近(「明治東京全図」〔部分〕明治9年、国立公文書館デジタルアーカイブ)
【浄瑠璃坂付近「明治東京全図」〔部分〕明治9年、国立公文書館デジタルアーカイブ 上屋敷跡地は、市谷砂土原町一丁目一と一ノ二、二に分割されています。】

散策に戻りましょう。

長延寺谷を下ってくると、向うに外堀通りがみえてきました。

その一つ手前、外堀通りと並行して走る道までが上屋敷の敷地でした。

この角地には現在、公益財団法人東京都予防医学協会の本部ビルが建っています。

公益財団法人東京都予防医学協会

公益財団法人東京都予防医学協会は、昭和24年(1949)に新宿区原町に設立された東京公衆衛生協会を前身とする団体です。

財団法人東京寄生虫予防協会として東京都から認可され、生徒児童を中心に寄生虫予防の活動を行いました。

設立翌年の昭和25年(1950)に東京都中央区京橋に移転、昭和39年(1964)に市谷砂土原町1丁目の現在地に本部ビルを新築して移転してきました。

新宮水野家上屋敷南西隅の画像。
【新宮水野家上屋敷南西隅にあたる財団法人東京予防医学協会本部ビル】

昭和42年(1967)には財団法人東京都予防医学協会へと改変されて現在に至っています。

このビルでは、人間ドックをはじめとする診察と、予防医学の普及啓発活動が行われています。(公益財団法人東京都予防医学協会Webサイトより)

予防医学協会のビルが建つ角を右手北方に曲がって100mほど進むと、再び浄瑠璃坂下に到着しました。

この坂下の東側角部分が、9代水野忠央の言葉で出てきた質屋の角甲があったところ、そのあたりに古風な石垣が残っているのは、これと関係があるのかもしれません。

ここで右に曲がって外堀通りに出ると、スタート地点の地下鉄南北線市ヶ谷駅5・6番出口に戻ります。

愛敬稲荷

時間の余裕がある方は、浄瑠璃坂下を右に曲がらずに直進してみてください。

すると、間もなく右手奥に小さな祠がみえてきました。

これが愛敬稲荷の跡地です。

愛敬稲荷は教蔵院の境内に祀られた神社でしたが、江戸時代にこの付近は大いににぎわっていました。

それというのも、この地に岡場所が置かれたからです。

岡場所とは町奉行からの許可を得ていない私娼地のこと。

江戸市中に40か所を超える岡場所があったといいますが、そのおよそ三分の二が寺社の門前地にありました。

それは、寺社奉行が神職や僧侶を取り締まる役であった上に、警察力をほとんど持っていませんでした。

さらに、町奉行が支配するのは町地ですので、寺社には手が出せなかったというわけです。

こうして行政のスキをついて岡場所が繫栄したわけですが、この愛敬稲荷も享保5年(1720)以降、大いに賑わうことになったのです。

その繁栄の様子は、明和から安永ころ(1764~80)に出された洒落本にも登場するほどでした。

しかし、寛政5年(1793)に寛政の改革がはじまると、所払いを受けて一気に衰退したのです。

ところで、愛敬稲荷はお辰という醜婦が、この稲荷に祈って良縁を得たという伝説があり、一名お辰稲荷とも言われていました。

それでは、あらためて帰路につきましょう。

浄瑠璃坂下へ戻って外堀通りに出ると、スタート地点の地下鉄南北線市ヶ谷駅5・6番出口に戻ります。

ここで散策は終了ですが、もし足に余裕のある方は、長延寺谷を登り切って市谷加賀町交差点に出て、北に曲がって進むと、市谷の杜・本と活字館があります。

ここは大日本印刷の前身である秀英社が明治19年(1886)11月に数寄屋橋から移転してきたところ。

関東大震災後に建てられた工場を復元して、活字出版のすべてがわかる施設として整備したのもです。

市谷の杜 本と活字館の画像。
【市谷の杜 本と活字館】

興味のある方は、ぜひ一度のぞいてみてください。

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献・参考文献など:

「明治東京全図」明治9年(1876)

『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市区調査会、1912

『東京市及接続郡部地籍地図』東京市区調査会、1912

『基督教年鑑 大正11年』日本基督教同盟 編(日本基督教興文教会、1922)

『東京市史稿 市街編49』(東京都 編集・発行、1960)

『東京の坂道』石川悌二(新人物往来社、1971)

『新宿の散歩道』芳賀善次郎(三交社、1972)

『新宮市史』新宮市史編さん委員会 編(新宮市役所、1973)

『角川日本地名大辞典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)

「秀英舎」西村直助『国史大辞典』七・八巻国史大辞典編集委員会(吉川弘文館、1986)

『忠臣蔵の手本 浄瑠璃坂の敵討 ―宇都宮藩騒動記―』原田種純(新人物往来社、1989.1.10)

『浄瑠璃坂の討入り ―忠臣蔵への道』竹田真砂子(集英社、1999)

『江戸・東京 歴史の散歩道2 千代田区・新宿区・文京区』街と暮らし社編(町と暮らし社、2000)

新宿区設置の案内板

日本福音ルーテル教会Webサイト、新宿区Webサイト

次回は、新宮水野家越中島中屋敷跡を歩いてみましょう。

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