陸軍糧秣本廠【紀伊国新宮水野家(和歌山県)66】

前回は新宮水野家から幕府、そして日本陸軍へと引き継がれた洋式調練所(練兵所)についてみてきました。

そこで今回は、練兵所の廃止後にこの地に設けられた陸軍糧秣本廠についてみてみましょう。

陸軍糧秣本廠

陸軍省の用地となった練兵場跡地は、陸軍糧秣本廠や憲兵隊施設、東京商船学校などの施設が置かれることになります。

このうち、かつての新宮水野家屋敷跡と榊原家・松平家下屋敷には、陸軍糧秣本廠が設置されました。

この陸軍糧秣本廠とは、糧秣、つまり兵士の食糧や軍馬の飼料を貯蔵して戦地に供給する施設です。

さらに具体的にその役目をみると、糧秣本廠は陸軍省経理局衣糧課の所轄で、糧秣の品質管理、製造、保管、追送を任務としていました。

明治時代の中期以降は、各地に展開した陸軍の部隊や捕虜収容所への糧秣を追送するにあたって、水運に恵まれたこの場所が糧秣本廠を設置するうえで最適だったのでしょう。

関東大震災で焼失した陸軍糧秣本廠(『大正震災写真集』関東戒厳令司令部 編(偕行社、1924)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【関東大震災で焼失した陸軍糧秣本廠『大正震災写真集』関東戒厳令司令部 編(偕行社、1924)国立国会図書館デジタルコレクション  すべての建物の屋根が焼け落ちています。中央下には延焼中の建物もみられます。】

陸軍糧秣本廠の施設

ちなみに、関東大震災での被害をまとめた『大正大震災震害及火害之研究』によると、陸軍糧秣本廠は明治37年(1904)頃に建設された建物が21棟存在しました。

その内容は、二階建てが1棟、そのほかに平家レンガ造りの建物が大小20棟で、このなかには罐詰工場をはじめとする各種工場が含まれています。

この二階建ては本部施設とみられますが、これらすべての施設が震災で焼失しています。

陸軍糧秣本廠付近、昭和11年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、B4-C6-96〔部分〕)の画像。
【陸軍糧秣本廠付近、昭和11年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、B4-C6-96〔部分〕)】
陸軍糧秣本廠付近、昭和19年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、8910ーC4-94〔部分〕)の画像。
【陸軍糧秣本廠付近、昭和19年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、8910ーC4-94〔部分〕)】

出版活動

また、昭和5年(1930)ころからは、陸軍糧秣本廠に書籍の出版事業が行われるようになっています。

『単位栄養概念:炊事専務卒教育参考書』『調理概論:炊事専務卒教育参考書』『糧食諸品栄養分析法』といった軍隊内の調理テキスト的なものにはじまって、『団体家庭基礎調理法:附・簡易病人食』のような家庭用の料理本、『日本兵食史』上下巻のような歴史研究書まで、幅広い内容の書籍が作られています。

おそらく軍隊内での食事に広く注目が集まる状況で、次第にジャンルを広げていったのでしょう。

戦後

終戦を迎えると、日本陸軍は解体されて、陸軍糧秣本廠も廃止されました。

そして糧秣本廠跡地は、深川憲兵分隊の用地と合わせて住宅地や公共施設として再開発されたのです。

ここでかつて越中島に置かれた施設の痕跡を探してみましょう。

越中島調練所の名残は、最初に見た練兵衛橋があげられます。

この橋は陸軍糧秣本廠の入り口としても使用されていましたので、越中島の歴史を知る上で重要な遺構といえるでしょう。

また、東京商船学校の施設は、そのまま東京海洋大学に移管されたために、その多くが現在も使用されています。

また、東京海洋大学の一角には、かつての海洋実習船・明治丸が展示されていますし、隣には明治天皇聖蹟碑(行幸碑)が設立されています。

さらに、大学構内には、第一・第二観測所をはじめとする施設が保存されているうえに、ラムゼー碑などが建立されています。

相生橋

それでは、散策に戻りましょう。

晴海運河に沿って東に向かうと、大きなトラス橋がみえてきます。

これが相生橋で、かつては中島をはさんで相生橋と相生小橋が設けられていました。

先代の橋は、震災復興橋として名高いものでしたが、老朽化のため1999年に架け替えられています。

「相生橋」(『東京市復興事業概要』大正15年 東京市復興事業局 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「相生橋」『東京市復興事業概要』大正15年 東京市復興事業局 国立国会図書館デジタルコレクション 】
「相生大橋」(『本邦道路橋輯覧』内務省土木試験場(道路改良会、1928)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「相生大橋」『本邦道路橋輯覧』内務省土木試験場(道路改良会、1928)国立国会図書館デジタルコレクション 】
相生橋の画像。
【現在の相生橋(2022年1月時点)】

相生橋を渡る清澄通りを北上して門前中町方向に進みましょう。

清澄通りをはさんで、明治丸や明治天皇行幸碑、東京海洋大学が広がっています。

最初にであう信号付近が新宮水野家中屋敷の南東隅にもどってきました。

ここで晴海通りを渡って越中島通りを東へ200mほど進むと、JR京葉線越中島駅に到着です。

スタートした東京メトロ東西線・都営大江戸線 門前仲町駅4番出口へは、このまま清澄通りをおよそ400m北上すると到着します。

今回の散策では、新宮水野家越中島中屋敷に関連する遺構は見られませんでした。

しかし、陸軍糧秣本廠については、入り口だった練兵衛橋が現存しているうえ、現在も物流倉庫として使用されていることから、かつての姿を想像できたように思います。

また、東京海洋大学には、明治丸をはじめ、第一・第二観測所などの施設が豊富に残っているうえ、明治天皇行幸碑やラムゼー碑などの見どころも多くありました。

「東京商船学校」(高島信義編『日本陸海軍写真帖』明治36年 史伝編纂所 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「東京商船学校」高島信義編『日本陸海軍写真帖』明治36年 史伝編纂所 国立国会図書館デジタルコレクション 】
明治丸(修繕中)の画像。
【明治丸(修繕中)】

もし歩き足りない方は、このあたりを散策されてはいかがでしょうか。

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など:

『本所深川會圖』戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永5年)

『分間懐宝御江戸絵図』(清原屋茂兵衛、安政4年)

『弘化改正御江戸絵図』高井蘭山 図(出雲寺万次郎:尚古堂岡田屋嘉七、弘化4年(1847))

「明治東京全図」明治9年(1876)

『大正大震災震害及火害之研究』営繕管財局(洪洋社、大正14年)

『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市区調査会、1912

『東京市及接続郡部地籍地図』東京市区調査会、1912

『深川区史』上巻、深川区史編纂会 編集・発行、大正15年

『品川台場』東京市保健局公園課 編(東京市、1927)

『単位栄養概念 食物知識:炊事専務卒教育参考書』陸軍糧秣本廠 編(糧友会、1930)

『調理概論:炊事専務卒教育参考書』陸軍糧秣本廠 編(糧友会、1930)

『南紀徳川史』第十七冊、堀内信 編(南紀徳川史刊行会、1933)

『団体家庭基礎調理法:附・簡易病人食』陸軍糧秣本廠 編(糧友会、1932)

『日本兵食史』上下巻陸軍糧秣本廠 編(糧友会、1934)

『糧食諸品栄養分析法』陸軍糧秣本廠 編(糧友会、1942)

『東京市史稿 市街編49』(東京都 編集・発行、1960)

『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』石川悌二(新人物往来社、1977)

『角川日本地名大辞典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)

『江東区史』中巻、江東区 編集・発行、平成9年3月31日

江東区Webサイト

江東区設置の案内板

参考文献

『江戸・東京 歴史の散歩道1 中央区・台東区・墨田区・江東区』街と暮らし社 編集・発行1999

『図説 江戸・東京の川と水辺の辞典』鈴木理生(柏書房、2003)、

次回は、新宮水野家牛込原町下屋敷を歩いてみましょう。

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