前回は、新宮水野家原町下屋敷跡を歩いてみてきました。
そこで今回は、この屋敷について、もっと詳しく見てみましょう。
新宮水野家市ヶ谷原町下屋敷の地勢
前回みたように、徳川家康から台地の先端部を水野忠仲(忠央)が拝領しました。
ところがこの土地は、水の便がないうえに、当時の江戸の市街地から離れた場所ですので、屋敷を構えるのに苦労したのではないでしょうか。
いっぽう、家康にしてみると違って見えてきます。
江戸から中野、さらには桃園川に沿って西に延びる現在の大久保通りは、古くからある生活道路でした。
この道に接する高台は、軍事上の拠点となりうるために、ここはやはり信頼できる家臣を配置しておく必要があったのでしょう。
水野忠央
そして江戸時代を通じてこの場所は新宮水野家の下屋敷が置かれることになりました。
その後、土地の交換などで縁辺部分で面積には変動がありましたが、ほぼ屋敷地は踏襲され続けたのです。
『新宮市史』によると、新宮水野家9代忠央は、こう公言してはばからなかったといいます。
「余の家臣にして内藤新宿と角甲を知らぬものはなし」
内藤新宿とは、この下屋敷から遠くない遊郭のこと、また角甲は浄瑠璃坂上屋敷裏にあった質屋のことを指しているとのこと。
殿様として家臣が遊郭に通い、金欠で質屋に通うと堂々と言い放つということは、それだけ家臣が世に通じていることを自慢したかったのでしょうか。
また、『新宮市誌』によると、忠央は領国から碁石に使う高級な石材の那智黒を庭いっぱいに敷き詰めて、雨上がりの風情を楽しんだことが記されています。
きっと一面の黒と青空のコントラストが美しかったのでしょう、忠央らしい豪快で華麗なエピソードです。
その後、廃藩置県に伴って、藩邸は上げ知となり皇室用地となりました。
そして、明治19年(1886)に下賜されて成城学校の校地となったのは前にみたところです。
それでは、帰路につきましょう。
公園から来たときの坂道を下ると、スタート地点の都営大江戸線牛込柳町駅西口に戻ります。
周辺の名所
もし時間に余裕のある方は、近隣の史跡や名所を巡ってみてはいかがでしょう。
先ほど見た水野原通りを南に300mほど進むと、東京女子医科大学に至ります。
この女子医科大学は、明治33年(1900)に飯田町4丁目9番地に吉岡彌生が東京女醫學校を設立したことに始まります。
大正元年(1912)東京女子医学専門学校に昇格、昭和27年(1952)には東京女子医科大学を開設しています。((『日本近代教育史事典』、東京女子医科大学Webサイトによる)
その後、日本で唯一の女子学生だけの医科大学として日本の医療に大いに貢献してきました。
現在地への移転は明治36年(1903)です。(『日本近代教育史事典』『国史大辞典』)
また、最初に行った路地の奥にある牛込柳町はすり鉢状のくぼ地になって入り場所で、隠れ家的お店や、どこか懐かしい風景、印象深い坂道が多いところ。
そして、ゴール地点の少し東、市谷柳町交差点は、かつて小川が流れており、妖怪小豆洗いがよく出没した場所だったと伝えられています。
もし歩き足りない方がおられたら、ちょっと散策してみるのもおすすめです。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
『市ヶ谷牛込會圖』戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永4年)
『弘化改正御江戸絵図』高井蘭山 図(出雲寺万次郎:尚古堂岡田屋嘉七、弘化4年(1847))
「明治東京全図」明治9年(1876)国立公文書館蔵
『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市区調査会、1912
『東京市及接続郡部地籍地図』東京市区調査会、1912
『新宮市誌』新宮市 編集・発行、1937
『東京市史稿 市街編49』(東京都 編集・発行、1960)
『日本近代教育史事典』日本近代教育史事典編集委員会編(平凡社、1971)
『新宿の散歩道』芳賀善次郎(三交社、1972)
『新宮市史』新宮市史編さん委員会 編(新宮市役所、1973)
『角川日本地名大辞典 13東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)
「成城学園」久保義三『国史大辞典』八巻、国史大辞典編集委員会(吉川弘文館、1987)
東京女子医科大学Webサイト
新宿区設置の案内板
参考文献など
『東京の坂道』石川悌二(新人物往来社、1971)
『江戸・東京 歴史の散歩道2 千代田区・新宿区・文京区』街と暮らし社編(町と暮らし社、2000)
次回は、新宮水野家深川三好町邸を歩いてみましょう。
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