前回は、演習軍はあてどもなくさまよい続け、ついに水野中尉が犠牲になるところをみてきました。
続いて今回は、映画のタイトルバックにも使われた神成大尉の咆哮前後の状況をみてみましょう。
第二露営地からの出発
伊藤中尉の証言によると、救援隊や地元民との遭遇を期待して田茂木野をめざして露営地を出発することとしたのです。
旭川で-41度の日本最低記録を出した明治35年(1902)1月25日未明の寒さは、容赦なく演習軍に襲い掛かりました。
あまりの寒さに夜が明けるのを待てず、午前3時に出発してしまったのです。
しかし、現在地もわからない演習軍は方向を誤り、田茂木野とは逆方向の前嶽を登っていたのです。
神成大尉の咆哮
進路が誤っているのに気づいた倉石大尉は、先頭で指揮する神成大尉を差し置いて回れ右の号令を発します。
このときついに、抑えに抑えてきた神成大尉の怒りが爆発してしました。
「天はわれ等を見放した」映画でキャッチコピーに使われたセリフですが、小原伍長によると、実際はこう叫んだのです。
「天はわれわれをみすてたらしい。俺も死ぬから、全員昨夜の露営地に還って、枕を並べて死のう!」
神成大尉咆哮の背景
倉石大尉は神成大尉と同じ階級とはいえ年下、しかも編成外で何の指揮権もありません。
この明白な越権行為は士族出身の倉石大尉があきらかに平民出身の神成大尉を見下したものといえます。
演習開始からの山口少佐の越権行為、山口少佐の度重なる誤った判断が巻き起こした演習部隊の大惨事、おびただしい死者、やまない吹雪などなど。
これらが重なって神成大尉の悲壮な叫びとなったのでしょう。
この怒号は隊員たちの士気を著しく低下させて、今まで耐えに耐えていた隊員たちの心を折ることになったのです。
第二露営地に戻る途上、バタバタと兵は倒れ、これを助けるものもないありさまとなってしまいます。
そして神成大尉の怒号でパニックを起こした兵たちは、てんでに背嚢を燃やし、火を奪い合う無秩序状態になったのでした。
このとき離脱した者たちの数名が生き残ることになるのは、何とも皮肉な話です。
主力軍、進退窮まる
昨夜の露営地に戻ると、山口少佐は人事不肖となり、残る60名ほどを倉石大尉が指揮することになったのでした。
倉石大尉は斥候を2隊出し、そのうちの一隊が放棄された橇を発見し、午前11時30分ころ帰路を発見したと伝えます。
12時ころに馬立場を目指して第二露営地を出発、このときの隊員たちの様子をみて倉石大尉は武器を残置させています。
26日、倉石大尉率いる主力は、按ノ木森を北上し、賽ノ河原北側を進み、マグレ沢の崖を下りて駒込川の大滝に到達、ここで動けなくなったのです。
滝壺は山の上よりも暖かく、ここで連日の疲れが出た隊員たちは31日までこの地で動けなくなったのでした。
遭難の発覚
いっぽう、神成大尉は25日に第二露営地に戻ったあと、しばらくここにとどまったようで、翌26日に鈴木少尉・及川伍長と後藤伍長らを率いて倉石大尉率いる主力を追いました。
神成大尉は前日出発した倉石大尉らの痕跡をたどって、馬立場~按ノ木森、さらに日の入りころ大滝平に到着します。
ここで鈴木少尉が突然姿を消し、さらに及川伍長も動けなくなりました。
神成大尉と後藤伍長の二人はさらに進みますが、二人は精根尽き果てて動けなくなり、その場で一夜を過ごします。
27日8時ころ、神成大尉は「自分はすでに歩行することはできない、お前はこれから田茂木野に行って村民に伝えよ」と後藤伍長に命じたうえ、「兵隊を凍死させたのは自分の責任であるから舌を噛んで自決する」といいました。
後藤伍長は立ち上がり、なんとか歩き始めましたが100mほど進んだところで力尽き、一歩も進めなくなってしまいます。
気を失う寸前で、しばらくそのまま立っていたようです。
後藤伍長発見
そして11時ころ、捜索隊が立ったままの後藤伍長を確認し、ここに遭難事件がようやく判明したのです。
捜索隊は後藤伍長から神成大尉が近くにいることを知って探し出しますが、大尉はすでにこと切れていたのです。
こうして演習部隊の惨状は、ようやく聯隊へと伝えられました。
後藤伍長の発見によって、演習軍の遭難がはじめて青森歩兵五聯隊へともたらされました。
次回は、事件が判明した後の救援活動をみてみましょう。
あれから120年が過ぎましたね。
確かに『倉石大尉の遭難談』にも「回れ右の号令をなし」と明記されてますが、それが神成大尉のあの悲痛な叫びに繋がったと云う事を初めて知りました。
また文中にて「26日、倉石大尉率いる主力は…ここで動けなくなった」「(同日神成大尉は)鈴木少尉・及川伍長と後藤伍長らを率いて倉石大尉率いる主力を追った」とありますが、前述の『遭難談』では「27日、神成大尉らと談合の上二隊に別れ」とあります。
神成大尉が「舌を噛んで自決する」と言ったのも初耳でした。
『後藤伍長の口述』にもありませんし、大尉の発見時に「気付け薬を打った際に一言唸った」と自分が持ってる史料には明記されてるのに対し、こちらさんでは「すでにこと切れていた」とあります。
出典元の史料を知りたいです。