4月24日・今日なんの日?

日本植物学の日・マキノの日

4月24日は、日本植物学の日・マキノの日です。

これは、「日本植物学の父」といわれる牧野富太郎が文久2年4月24日(1862年5月22日)に生まれたことから、制定されたものです。

牧野富太郎とはどのような人物なのでしょうか。

牧野富太郎(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【晩年の牧野富太郎(出典:近代日本人の肖像) まさに蔵書の山に囲まれています。】

植物学との出会い

牧野富太郎とは、独学で世界的な植物鑑定学者となった人です。

土佐国高岡郡佐川村西町組、現在の高知県高岡郡佐川町の百一番屋敷で生まれました。

父は佐平、母は久寿で、酒造家の長男として何不自由のない少年時代を送ります。

幼いころに父母を亡くし、祖母によって育てられました。

寺子屋や藩校名教館で学んだあと、明治7年(1874)佐川小学校へ入学するものの自然退学し、そこから独学をはじめたのです。

幼いころから植物に興味を持っていましたが、明治11年(1878)ごろに博物学を教えていた高知師範学校の永沼小一郎と知り合い、その影響で植物学の研究をはじめます。

佐川町市街(『佐川町誌』西村亀太郎 編(佐川町自治会、大正8年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【大正時代の佐川の町並】
柳瀬公園より小富士を望む(『佐川町誌』西村亀太郎 編(佐川町自治会、大正8年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【大正時代、柳瀬公園より小富士を望む景観】
佐川尋常小学校(『佐川町誌』西村亀太郎 編(佐川町自治会、大正8年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【牧野が通った藩校・名教館、維新後はそのまま佐川小学校となりました。写真は大正時代の佐川小学校(佐川尋常小学校)】

東京帝国大学へ

その後、東京帝国大学教授の矢田部良吉に認められて明治17年(1884)に上京、東京帝国大学理学部植物学教室に出入りするようになり、松村任三と出会います。

明治20年(1887)『植物学雑誌』を創刊、ここに明治22年(1889)掲載したヤマトグサは牧野と大久保三郎が学名を付けたもので、日本人が最初に学名を付けた植物となりました。

それと同時に、牧野と大久保は日本人として初めて植物に学名を付けたのです。

明治21年(1888)からは私財をなげうって『日本植物志図篇』第1巻第1集を自費出版したことが矢田部らの不興を買い、植物学科への出入り禁止されてしまいます。

矢田部良吉(Wikipediaより20220422ダウンロード)の画像。
【矢田部良吉(Wikipediaより)】

このため、明治23年(1890)にはロシアのマクシモヴィッチ教授を頼って亡命まで計画しますが、教授の急死によって中止に。

その後、池野成一郎の好意で東大農学部の研究室で研究を続けます。

このころ、実家は破産に瀕したため、『日本植物志』の刊行が難しくなり、家財を整理するまで追い込まれました。

再び東京帝国大学へ

明治26年(1893)に矢田部良吉が罷免されると松村任三が教授に就任、牧野は助手として東京帝国大学に迎え入れられたのです。

そして、東大総長浜尾新から本格的な日本の植物誌である『大日本植物志』の刊行を依頼されます。

浜尾新(Wikipediaより20220422ダウンロード)の画像。
【浜尾新(Wikipediaより)】

明治33年(1900)『大日本植物志』第1巻第1集を刊行、その後第4集まで続きましたが、またもやそこで中止に。

さらに無謀ともいえる書籍購入や植物学研究の膨大な経費のために家系はひっ迫し、一家の存続が危ぶまれる危機に瀕します。

ところが、この状況が『朝日新聞』により報道されると、池長孟の経済援助を受けることができたのです。

牧野は、明治45年(1912)には講師となり、以後40年にわたって奉職しています。

牧野富太郎(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【牧野富太郎(出典:近代日本人の肖像)】

再びの困難

いっぽう、有名になるにしたがって全国の植物愛好家より招かれ、横浜植物会、阪神植物同好会、東京植物同好会などが次々と結成されていきます。

大正5年(1916)『植物研究雑誌』を創刊、そのため莫大な借金で刊行が危うくなると、成蹊学園の創立者・中村春二の経済的援助で救われたのでした。

ところが、大正13年(1924)に中村が急死すると、援助も打ち切られました。

そのうえ妻・寿衛子が、経営した待合「今村」も儲けも研究につぎ込んで経営が行き詰ったのみならず、昭和3年(1928)に病死すると、新発見の笹に妻の名をとって「スエコザサ」と命名し追悼します。

牧野富太郎書簡(緒方益井宛、大正7年11月26日 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【牧野富太郎書簡(緒方益井宛、大正7年11月26日) 緒方益井からのコブシについての質問に、絵を添えてわかりやすく説明しています。牧野は全国から数多く寄せられる問い合わせにも丁寧に対応したといいます。】

研究の集大成

しかし、このころからようやく業績が認められはじめて、1937年に朝日文化賞を受賞。

昭和14年(1939)東大理学部講師を辞任し、昭和15年(1940)、これまでの研究の集大成ともいえる『牧野日本植物図鑑』を刊行しました。

昭和25年(1950)日本学士院会員となり、昭和26年(1951)第1回文化功労者、昭和28年(1953)東京都名誉都民第1号となります。

昭和32(1957)年12月18日に東京で没しました。

この年に文化勲章を追贈されたうえ、翌昭和33年(1958)には故郷で高知県立牧野植物園が開園、さらに東京でも牧野記念庭園が開園しました。

牧野富太郎の業績

『日本植物志』は、日本各地で採集した植物を近代分類学に基づき分類し、新種のものには学名をつけて、自ら図を描いて製版を行ったもので、学界から絶賛を浴びました。

そしてなにより、牧野の鑑定は群を抜いて的確だったといいます。

その後も日本各地で植物を採集し、1,000種の新種、新変種1,500種を命名するとともに、およそ60万点もの標本を採集しました。

牧野富太郎(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【晩年の牧野富太郎(出典:近代日本人の肖像)】

また、研究の主体性ともいえる『牧野日本植物図鑑』は、長く植物学を学ぶもの必携の書とされ、現在でも用いられているのです。

ここまでみたように、牧野は文字通り日本植物分類学の基礎を独力で築き上げる偉大な業績を残したといえるでしょう。

また、多くの植物学者に助力や影響を与え、当時牧野とかかわりのない植物学者は一人もいないとまで言われています。

さらに、一般の植物愛好家へ与えた影響も全国に及び、知識の点でも人間関係の点でも、日本最大の植物学者なのです。

朝ドラの主役に

そして2023年度前期連続ドラマ(朝ドラ)は、牧野富太郎をモデルとした『らんまん』(長田育恵作、神木隆之介主演)の放映が決定しました。

これからますます牧野富三郎の生きざまが多くの人の感銘を与えることになるでしょう。

(今回の文章は、『朝日人物事典』『国史大辞典』とNHK Webサイトを参考に執筆しました。)

きのう(4月23日

明日(4月25日

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