5月2日は、1872年(明治5年3月25日)に女流作家・樋口一葉が生まれた日です。
そこで、樋口一葉についてみてみましょう。
文学を志すまで
樋口一葉は本名奈津、浅香のぬま子、春日野しか子のペンネームを使っています。
一葉は東京府の官吏である父・則義と母・多喜の第五子、二女として内幸町1丁目1番屋敷東京府校内長屋に生まれました。
明治16年(1883)12月に池ノ端にあった私立青梅学校高等科第四級を一番で卒業するものの、母の意見により家事見習のため退学。
翌年には歌人和田重雄に、明治19年(1886)からは中島歌子の萩の舎に入門して、和歌と古典を学び、歌人としてのデビューを目指していました。
明治21年(1888)2月、事業の失敗により多額の負債を抱えた父・則義に代わって戸主となるものの、明治22年(1889)には兄と父を相次いで亡くします。
こうして中流から貧困へと転落しはじめていた一家の負担が一葉にかかっていったのです。
生活のために小説を書くことを思い立ち、明治24年(1891)10月から朝日新聞の小説記者だった半井桃水の手ほどきを受けて、習作をはじめました。
しかし桃水との関係が茅の舎で醜聞沙汰となって、しかたなく桃水から離れることになったのです。
竜泉寺町時代
このころ、「都の花」に発表した『うもれ木』が星野天知の目に留まり、「文学界」に執筆を依頼されるようになります。
こうして「文学界」の同人だった平田禿木・馬場孤蝶・戸川秋骨・上田柳村・川上眉山・島崎藤村たちとの交流がはじまりました。
なかでも、戸川と馬場は、一葉を毎日のように訪問したそうです。
一葉は、明治26年(1893)7月、下谷竜泉寺町、現在の台東区竜泉3丁目に移転して、荒物や子供相手の駄菓子などの小店を開きました。
この店もまもなく資金難で失敗、しかし龍泉に近い吉原遊郭という特殊な町の暮らしを体験したことが、のちのち生きてくるのです。
丸山福山町時代
明治27年(1894)の初夏、いよいよ生活に行き詰った一葉は、本郷区丸山福山町、現在の文京区西片町1丁目の酩酊屋街に移ります。
そして一葉は、『大つごもり』(「文学界」明治27年12月)、『にごりえ』『十三夜』『わかれ道』(「国民之友」明治29年1月)、『たけくらべ』と、代表作となる作品を次々と発表しました。
一葉が完成させた短編小説全21編のうちの5編が、明治27年(1894)12月から29年(1896)1月の14か月間の間に発表されたのです。
また、この頃は一葉宅がサロンのようになっていて、多くの文人でにぎわったといいます。
一葉の死
『たけくらべ』は森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨の文芸界の重鎮三人が絶賛したことで、一葉の高い評価は一気に定まったのです。
さらにメジャー総合誌「太陽」に『ゆく雲』が発表されると、一葉の名は広く知られることとなりました。
ところがこのとき、一葉は粟粒結核に侵されて余命いくばくもない状態に。
それでも執筆をつづけ、『われから』(「文芸俱楽部」明治29年5月)を発表、『うらむらさき』(前半のみ「新文壇」明治29年2月)を執筆途中の明治29年11月23日、数え年25歳で亡くなりました。
一葉は死に際して斎藤緑雨に『日記』などを託し、家族に看取られて亡くなったといいます。
没後
まさに文名が高まる中で一葉は没しましたが、一葉の母と妹が後に残されることになりました。
遺族の生活のため、あるいは一葉との約束を果たすため、緑雨は博文館から単冊本『校訂 一葉全集』(同6月)を刊行、馬場孤蝶は明治45年に2冊本『一葉全集』を博文館から刊行し、売り上げで遺族が暮らしていけるように配慮したのです。
また、早世した一葉を誰よりも惜しんだ斎藤緑雨も、明治37年(1904)結核により36歳で亡くなりました。
死を前にして、緑雨は預かっていた一葉の『日記』を馬場孤蝶に託したといいますから、緑雨が一葉を想う気持ちがいかに強かったのかがわかります。
五千円札
吉原を舞台に、少年少女の淡い恋を美しく描き上げた『たけくらべ』は日本を代表する小説として海外でも高く評価されるようになりました。
このような背景もあって、平成16年(2004)からは一葉の肖像をデザインした5千円札が発行されましたが、いかにもお金に縁のなかった一葉がお札になるアイロニーには苦笑するしかありません。
ちなみに、お札については、2024年に津田梅子の5千円札にバトンタッチする予定、ようやくこれで一葉もゆっくり休めるわけです。
(この文章を書くにあたって、『明治文壇の人々』馬場孤蝶(東西出版社、1948)、「一葉女史と其周囲」『藤村全集』6巻、島崎藤村(筑摩書房、1967)と『日本近代文学大事典』『国史大辞典』の関連項目を参考にしました。)
きのう(5月1日)
明日(5月3日)
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