蔦屋重三郎が亡くなった日
5月31日は、1797年(寛政9年5月6日)に浮世絵や黄表紙などの版元・蔦屋重三郎が亡くなった日です。
そこで、蔦屋重三郎の生涯をたどり、現在へのメッセージを探ってみましょう。
出版業へ
蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)は寛延3年(1750)1月に吉原の娼家の子として生まれ、本名は、姓は丸山、名は柯理(からまる)と、かなり変わった名前です。
彼の菩提寺である浅草正法寺の六樹園碑文によると、父は重助、母は広瀬氏、幼少の頃に吉原仲の町の茶屋・蔦屋を経営する喜多川氏の養子となっています。
蔦重は成長するとお茶屋の主人に飽き足らず、安永のはじめ頃(1772ころ)新吉原五十間道東側(吉原大門口)に書肆(本屋)を開業しました。
安永4年(1774)に版元をはじめると、安永5年(1776)には山崎金兵衛との合版で勝川春章・北尾重政合作の「絵本青楼美人合姿鏡」を出版し、最初のヒットをとばします。
「吉原細見」
この利益を使って、この年に吉原の細見発行の株を得て版元になって「吉原細見」というガイドブックのビジネスモデルを作り出しました。
蔦重は店ごとに情報を整理、さらにこれを吉原遊郭の地図と連動して見られるように工夫して持ち運びに極めて便利なように大型化したのです。
さらには天明2年(1782)には細見版元の株を掌握し、独占販売体制を作り上げて、この種の出版物を「吉原細見」の総称で統一しました。
こうして吉原細見は吉原のすべてがぎっしりと詰まった総合情報誌となって、吉原遊びには欠かせないもの、江戸っ子たちが日常生活で楽しむ本となったのです。
驚くべきことに、吉原細見があまりにもよくできていたので、昭和33年(1958)の売春防止法施行によって吉原遊郭が消滅するまで、スタイルを変えつつも四季折々に発行し続けられました。
(「吉原再見」について詳しくは、こちらをご覧ください。)
「耕書堂」
吉原細見で得た利益で天明3年(1783)9月には吉原から通油町南側中程にあった地本問屋(じほんどいや、地本とは江戸で作る書物のこと)丸屋小兵衛の株を買収して店を移します。
こうして吉原細見を地元吉原で売る事業形態から、洒落本、黄表紙、絵本、錦絵という出版物を幅広く制作して販売する総合出版業へとビジネスを発展させて、当時の江戸における商業の中心地に出店したのです。
もちろん、吉原細見の製造販売も続けるのですが、店舗移転が吉原に来たいけど行くことができない人々という隠れた需要を掘り起こすとになって、こちらも売り上げをさらに延ばすことになりました。
彼が得た巨万の富は才能の発掘と育成に惜しみなくつぎ込まれ、次々と新しい才能を世に送り出すと、さらにそれが新たなムーブメントを作り出していきます。
(「耕書堂」について、詳しくはこちらをご覧ください。)
狂歌ブーム
蔦重は才能を見出す点においても天才的で、狂歌絵本と錦絵については、次のような方法で一大ブームを巻き起こしました。
➀才能を発掘する。⇒ ②見出した才能ある人の生活を保障する。⇒ ③その人が作品を発表する機会を積極的に作る。⇒ ④彼らが一流アーティストと一緒に仕事する機会を作る。
こうして世に送り出された才能は、狂歌師・戯作者では、大田南畝(蜀山人)、恋川春町、山東京伝、十返舎一九、曲亭(滝沢)馬琴など、浮世絵師では喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽など、相当な数に上っています。
蔦重によって見いだされ育てられた才能がいかに多いか、またその方法がいかに合理的なものかがよく分かります。
(狂歌ブームについて詳しくは、こちらをご覧ください。)
蔦重の死
こうして狂歌の一大ブームを巻き起こした蔦重ですが、皮肉にも今度はそのことが彼を苦しめることになります。
寛政3年(1791)に刊行した山東京伝の洒落本『仕懸文庫』、『錦の裏』、『娼妓絹麗』が幕府の忌諱に触れて蔦屋は財産の半分を没収され、京伝は50日間の手鎖の刑という厳罰が下されたのでした。
これは、松平定信による寛政の改革(天明7年(1787)~寛政5年(1793))が行われる中で、当時の出版物には幕府に批判的内容が多いこともありますが、見せしめ的要素が極めて強い処罰であったと考えてよいでしょう。
この弾圧により、狂歌ブームは収束、狂歌の帝王・大田南畝(蜀山人)の引退(後に復帰)などが重なって蔦重の出版物の人気が急速に衰えてしまいます。
蔦重は処罰の五年後にあたる寛政8年(1796)からは病気がちとなり、その翌年にあたる寛政9年(1797)5月6日、わずか齢48で病没してしまいます。
蔦重が残したもの
蔦重の死からわずか7年ののち、文化年間に入ると、幕府の統制も緩んで江戸の文化創造は再び活性化していきます。
新しい文化を牽引したのは、復帰した太田南畝(蜀山人)をはじめ、蔦重と縁が深い山東京伝、曲亭(滝沢)馬琴、十返舎一九、葛飾北斎といったメンバーでした。
これに式亭三馬、柳亭種彦、為永春水、歌川広重といった新しい才能が加わって、江戸の都市文化が大きく実を結ぶこととなったのです。
「大谷鬼次の奴江戸兵衛」東洲斎写楽1794 大英博物館 「婦女人相十品 (ポッピンを吹く女)」メトロポリタン美術館
こうして誕生した化政文化の産物は、はるか海を越えたヨーロッパの地でも高く評価されていきます。
なかでも浮世絵はヨーロッパに衝撃を与え、ジャポニズム(日本趣味)を巻き起こして印象派の画家たちに多大な影響を与えたことはよく知られるところです。
現在でも、浮世絵をはじめ、彼が関わった作品の多くが日本を代表するコンテンツとなって盛んに用いられています。
蔦屋重三郎が世に送り出した喜多川歌麿、東洲斎写楽、滝沢馬琴など、世界樹の人たちが知っているあまりにも有名な作品の数々は、今や日本が世界に誇る文化遺産となっているのです。
(蔦屋重三郎の現代への影響について詳しくはこちらをご覧ください。)
(この文章は、『日本橋横山町馬喰町史』有賀祿郎編(横山町馬喰町問屋連盟、1952)、『中央区史 上巻・下巻』(東京都中央区役所、1958)および『江戸学辞典』『江戸東京学事典』『浮世絵事典』の関連項目を参考に執筆しました。)
きのう(5月30日)
明日(6月1日)
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