土岐善麿に学ぶ「友達とは?」

土岐善麿が生まれた日

6月8日は、明治18年(1885)に歌人・土岐善麿が生まれた日です。

「あれ、その名前聞いたことあるかも」という方も多いはず、それというのも善麿は100を超える学校の校歌を作詞しています。

小学校から大学まで、はたまた北は北海道から徳島県まで、母校の浅草小学校や都立日比谷高校など、東京を中心に実にたくさんの学校の校歌を作詞した人物なのです。

そこで、土岐善麿の生涯を振り返りながら、現代へのメッセージを探っていきましょう。

浅草 等光寺(2022年5月撮影)の画像。
【浅草 等光寺(2022年5月撮影)】

青年期まで

土岐善麿(とき ぜんまろ)は、明治18年(1885)に東京市浅草区松清町、現在の台東区西浅草1丁目の真宗大谷派等光寺で父・土岐善静と母・観世の二男として生まれました。

父・善静は仏教や国学に通じた学僧で、柳営連歌の最後の宗匠です。

善麿は大谷教校に入学、明治27年(1894)浅草尋常小学校三年に編入、この頃から父に歌つくりの手ほどきを受けました。

はやくも、中学時代には金子薫園選の雑誌『新声』歌壇に投稿していいます。

明治32年(1899)東京府立第一中学、現在の日比谷高校に入学、同期に石坂泰三や三宅正一郎、一級下に谷崎潤一郎などがいました。

若山牧水(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【若山牧水(出典:近代日本人の肖像)】

明治37年(1904)早稲田大学英文科に入学、同級の若山牧水や北原白秋との交流がはじまり、終生続いたのです。

明治38年(1905)春には薫園主宰の白菊会に入会しました。

明治41年(1908)に大学を卒業すると、読売新聞社に入社し、社会部記者となりましたが、社会部部長になったのち退社しています。

土岐善麿(『中学国文教科書教授備考:修正二十三年版用 巻5』光風館編輯所 編(光風館、昭和10年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【土岐善麿(『中学国文教科書教授備考:修正二十三年版用 巻5』より)】

明治42年(1909)に中村寅吉の三女・鷹子と結婚し、同年に朝日新聞に入社し、定年まで勤めあげたのです。

ローマ字運動と善麿

明治43年(1910)先輩の杉村楚人冠を通じて堺利彦と知り合い、堺を通じて大杉栄、荒畑寒村と交遊しました。

そしてこの年の3月に、親友・若山牧水が第一期『創作』を創刊すると、ローマ字短歌を発表、4月には最初の歌集『NAKIWARAI』を刊行します。

そこから、田中館愛橘らが指導する『ローマ字世界』の編集に従事、以後はローマ字運動に参加していきます。

田中館愛橘(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【田中館愛橘(出典:近代日本人の肖像)物理学者で東大教授、熱心なローマ字論者としても知られています。】

戦後の昭和21年(1946)にはローマ字運動本部委員、文部省ローマ字教育協議会議長に就任するなど、一貫して活動していきました。

啄木との出会い

明治43年(1910)8月に、石川啄木の『NAKIWARAI』評が朝日新聞に掲載されました。

これをきっかけに、意気投合した二人は、社会思想啓蒙のための雑誌『樹木と果実』の発刊を目指すものの、啄木の発病により挫折してしまいます。

そして、明治45年(1912)『黄昏に』から大正5年(1916)『生活と芸術』廃刊までは、社会主義思想と実生活の間にあって苦悩することになったのです。

その後も、時代に即してスタイルを変えつつも、生涯にわたって旺盛な活活動を続けました。

この間、エスペラント語関係の活動、新作能の詞章の創作、多くの漢詩の和訳を行い、帝国学士院賞を受賞しています。

東京朝日新聞社調査部部長 土岐善麿(『朝日新聞社社員写真帖:創立五十年記念』朝日新聞社 編集・発行、昭和4年 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【東京朝日新聞社調査部部長時代の土岐善麿(『朝日新聞社社員写真帖:創立五十年記念』より)】
『NAKIWARAI』(TOKI AIKWA(土岐善麿)(ROMAJI-HIROME-KWAI、明治43年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【『NAKIWARAI』TOKI AIKWA(土岐善麿)初版の表紙】

戦中戦後

戦争が激化して翼賛団体である大日本歌人会が結成されると歌壇から退いて、田安宗武研究に集中し、それ以後も古典研究に取り組みました。

この成果が『田安宗武』や『京極為兼』などの古典研究に現れたほか、杜甫研究にも傾注しています。

『源実朝』表紙(土岐善麿(至文堂、昭和19年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【『源実朝』表紙 土岐善麿の古典研究の成果の一つです】

戦後は早稲田大学や京都大谷大学などで教鞭をとるいっぽうで、文部省国語審議会会長、東京都立日比谷図書館館長、日中文化交流協会理事などを務めました。

また芸術院会員や文学博士にもなっています。

昭和55年(1980)4月15日、東京都目黒区下目黒の自宅で死去、享年94歳でした。

啄木と善麿

善麿と啄木は、交遊期間がわずか1年ほどでしたが、ともに社会主義思想に共感して、その啓蒙雑誌『樹木と果実』の刊行を計画するほどの関係でした。

石川啄木(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【石川啄木(出典:近代日本人の肖像)】

ちなみに、樹木は啄木の「木」字から、果実は当時の善麿の号、哀果の「果」字からとったもので、啄木と善麿の雑誌、という意味だったのでしょう。

雑誌発行は、啄木の発病により中止となりましたが、この月には大逆事件で幸徳秋水らが死刑となり、時代の閉塞感、危機感を共有しています。

また、明治45年(1912)2月に刊行した『黄昏に』には啄木への献詞したのです。

病床の啄木のために第二歌集『悲しき玩具』出版に努力するものの間に合わず、4月15日に実家の等光寺で葬儀を執行、遺骨を同寺の総墓に埋葬しました。

これ以後、善麿は啄木を世に出すことに尽力し、遺族の生活を助けていきます。

この年の10月13日には啄木の一周忌追悼会を実家の等光寺で開催し、『啄木遺稿』を刊行しました。

また文芸思想雑誌『生活と芸術』を創刊しますが、これは啄木と計画した『樹木と果実』の再現を目指したものだったのです。

しかし、社会主義思想と現実生活、実践活動と文藝との矛盾に苦悩する中、大正4年2月には第二巻第6号が発売禁止となったこともあり、大正5年(1916)6月に2年10か月、通算34冊を刊行した時点で廃刊となってしまいました。

大正8年には啄木七周年追想会を等光寺で開催、この日に善麿の尽力によって新潮社から『石川啄木全集』全三巻の第一巻が刷りあがり、翌年4月に完結、印税は啄木の遺児の育英資金に充てています。

なお、この全集がブレイクし、すでに人々の記憶から消えはじめていた石川啄木の名を人々の心に刻み付けることとなったのです。

釈迢空(折口信夫)(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【釈迢空(折口信夫)(出典:近代日本人の肖像)】

ちなみに善麿は、若山牧水、釈迢空(折口信夫)とも生涯にわたる交遊を結んでいますので、友達に恵まれた生涯だったといえるでしょう。

このように、友情で固く結ばれた善麿と啄木ですが、じつははじめて会った時に善麿は、啄木がずいぶん生意気そうに見えてイヤな感じだったそうです。

やはり、人は見た目で決めてはいけません。

土岐善麿(『アサヒグラフ』 1953年9月16日号 Wikipediaより20220530ダウンロード)の画像。
【土岐善麿(『アサヒグラフ』 1953年9月16日号 Wikipediaより)】

(この文章は、『日本近代文学大事典』『国史大辞典』『明治時代史大辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(6月7日

明日(6月9日

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