清水次郎長の野望

清水次郎長が亡くなった日

6月12日は、明治26年(1893)に清水次郎長が亡くなった日です。

そこで、次郎長の生涯をたどって現在へのメッセージを探ってみましょう。

大親分への道

清水の次郎長、本名は山本長五郎で、文政3年(1820)1月1日に駿河国清水湊、現在の静岡市清水区の持船船頭・高木三右衛門(通称・雲不見(くもみず)三右衛門)の三男として生まれました。

当時の迷信で、元旦生れは賢才か極悪化といわれたため、母の弟である米問屋甲田屋(甲太屋)山本次郎八の家へ養子に出されます。

清水次郎長(『清水次郎長』碧瑠璃園(一書堂書店、大正14年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【清水次郎長(『清水次郎長』より)】
次郎長の筆跡(『大豪清水次郎長』小笠原長生(実業之日本社、1936)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【次郎長の筆跡(『大豪清水次郎長』より)】

そして次郎長の通称は、「次郎八の長五郎」を縮めたものだそうです。

次郎長は幼少時より凶暴で知られましたが、改心して養父を看取ると、甲田屋の生業に精励し、天保8年(1837)には妻を迎えました。

しかし、天保13年(1842)23歳にして博徒となり、博徒の親分として勇名をはせることになります。

次郎長の性格は侠気にとみ、再び凶暴性を発揮して、甲州の黒駒の勝蔵(池田勝馬)や尾州保下田の久六、桑名の穴生徳(安濃徳太郎)と争い、富士川や海上交通の縄張り争いを展開していきました。

そして次郎長は次第に勢力を拡大して、慶応2年(1866)には伊勢荒神山、現在の三重県鈴鹿市高塚町の大祭の日に、勝蔵一派との決戦を迎えます。

兄弟分だった三州吉良の仁吉が勝蔵と戦って敗死すると、復讐の鬼となって勝蔵一派と戦ったのです。

その後、維新のときに東征総督府より道中探索方を命じられ、帯刀を許されました。

明治の次郎長

明治元年(1868)9月18日に榎本武揚が率いる旧幕府艦隊が江戸湾から脱走したとき、そのうちの一隻である咸臨丸が清水港に漂着、新政府軍がこれに総攻撃を仕掛けて、多数の死傷者を出す事件が起こります。(咸臨丸事件:維新の殿様・柳川藩編第47回参照)

次郎長は、新政府軍が放置した死者を義侠心から収容し、手厚く葬ったのでした。

この事実を知った山岡鉄舟と榎本武揚らは感激し、交友を結ぶようになりました。

咸臨丸戦死者記念碑(『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎(巖松堂、1938)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【次郎長が建立した咸臨丸戦死者記念碑(『幕末軍艦咸臨丸』より)】
山岡鉄舟(『鉄舟言行録』安部正人編(光融社、1907)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【山岡鉄舟(『鉄舟言行録』より)】

明治7年(1874)に山岡や静岡県権令大迫貞清は次郎長を後援して、正業につくようにすすめます。

ここで、次郎長は模範囚を連れて県下の万野ヶ原や有度山の開墾を計画、富士裾野に数十町の開墾に成功しました。

さらに、清水湊を整備して清水―横浜間の定期航路を開き、船会社静隆社を設立します。

いっぽうで、将来清水湊が発展して外国人との接触が増えることを見込んで、英語の教師を招聘して外国語を習得する支援を行いました。

清水港(昭和10年撮影)(『遊覧の清水』清水保勝会 編集・発行、1935 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【清水港(昭和10年撮影)(『遊覧の清水』より)】

このころの次郎長は、清水湊の船問屋松本屋平右衛門や、松本屋没後は回漕屋播磨屋こと鈴木与平と魚問屋の芝野金七などと、賛同する地域の有志からさまざまな支援を得ていたのです。

次郎長逮捕

ところが、明治17年(1884)1月4日に賭博犯処分規則が布告されたのに伴い、2月25日に次郎長は江尻警察署に逮捕されてしまいます。

家宅捜索でゲーベル銃23丁ほか多数の武器と賭博用具が発見されて、懲役7年・過料400円に処せられて、静岡井之宮監獄に収監されました。

この年の4月に、当時次郎長の養子だった天田愚庵(山本鉄眉)が『東海遊侠伝』が刊行されましたが、これは愚庵が次郎長本人から聞き取った話をもとに執筆したもので、次郎長釈放運動の一環でもありました。

天田銕眼(愚庵・山本鉄眉)(『日本仏家人名辞典』鷲尾順教 編(光融館、明治44年再版)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【天田銕眼(愚庵・山本鉄眉)(『日本仏家人名辞典』より)】
『東海遊侠伝』〔表紙〕(山本鉄眉(與論社、明治17年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【『東海遊侠伝』〔表紙〕(山本鉄眉(與論社、明治17年)】

さらに山岡たちが奔走したこともあって、明治18年(1885)に仮出獄しています。

明治26年(1893)6月12日、74歳で死去、清水・梅陰寺に葬られました。

次郎長墓(『遊覧の清水』清水保勝会 編集・発行、1935 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【次郎長墓(『遊覧の清水』より)】
清水梅陰寺境内の次郎長銅像と小笠原長生子爵(『大豪清水次郎長』小笠原長生(実業之日本社、1936)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【清水梅陰寺境内の次郎長銅像と小笠原長生子爵(『大豪清水次郎長』より)】

高まる名声

次郎長は死後、さらにその名を天下に轟かすことになります。

講釈師の三代目神田伯山が、講談・浪曲の題材として清水次郎長を取りあげ、定着させたのです。

『清水次郎長』〔中扉〕(神田伯山 口演(武侠社、大正13年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【『清水次郎長』〔中扉〕神田伯山 口演(武侠社、大正13年)】

さらに伯山の弟子・万山からこれを受け継いだ浪曲師・二代目広沢虎造がラジオ放送やレコードでの口演が爆発的人気となり、昭和初期の大衆にとって次郎長は英雄的存在にまで高められたのです。

じつは伯山の『清水次郎長伝』は、愚庵の『東海遊侠伝』をもとにつくったもの。

先ほど見たように『東海遊侠伝』は次郎長の保釈運動の一環として書かれたものだったので、次郎長の功績をたたえる内容となっていました。

それだけに、講談や浪曲では、虚実入り混じった次郎長像が作られていったのです。

清水一家を立ち上げて、抗争を重ねながら海道一の大親分に成りあがっていく過程が、義理人情をもとにした人間的魅力のみで描かれ、次郎長の持つ権力志向の一面が、すっかり抜け落ちました。

とはいえ、こうして清水と次郎長の名は、全国津々浦々まで知れ渡ることになりました。

次郎長が有名になることで、清水の住民たちの誇りとなり、地域のアイデンティティーを形作る役割も担っていきます。

「次郎長音頭」が発売され、「次郎長まつり」が大々的に行われ、「次郎長人形」が地域の土産物となりました。

この名声は、小説やドラマ・映画が次々と作られたうえ、「ちびまる子ちゃん」によって次世代へと引き継がれ、清水の次郎長の名を現代にまで喧伝し続けているのです。

こうして紆余曲折の末、死してなお名を遺し、故郷の発展に尽くしたことは、清水次郎長にとってまさに本望といえるのではないでしょうか。

晩年の清水次郎長(『大豪清水次郎長』小笠原長生(実業之日本社、1936)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【晩年の清水次郎長(『大豪清水次郎長』より)】

(この文章は、『遊覧の清水』(清水市保勝会 編集・発行、1935)、『清水次郎長』碧瑠璃園(一書堂書店、大正14年)、『大豪清水次郎長』小笠原長生(実業之日本社、1936)、『幕末軍艦咸臨丸』文倉平次郎(巖松堂、1938)および『国史大辞典』『明治時代史大辞典』『日本史大事典』『大衆文化事典』の関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(6月11日

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明日(6月13日

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