小説家の阿武天風が亡くなった日
6月22日は、昭和3年(1928)に小説家の阿武天風が亡くなった日です。
そこで、天風のバンカラ人生をふり返ってみましょう。
押川春浪との出会いまで
阿武天風(あぶ てんぷう)、本名・阿武信一(あんの しんいち)は、明治15年(1882)9月8日に山口県阿武郡三見村、現在の萩市で二男として生まれました。
父・平十郎は郵便制度創始から郵便局長を務めた村の有力者でしたが、天風は小学校時代からガキ大将で、やんちゃの限りを尽くしたようです。
明治34年(1901)萩中学校を卒業すると、江田島の海軍兵学校に進みました。
海軍少尉となって実地演習を積み、明治38年(1905)1月には軍艦「千代田」の乗組員となったのです。
日露戦争の際は、出兵して朝鮮海峡の警備にあたり、日本海海戦に参加したのち、樺太攻撃にも参加しています。
のちに軍艦「扶桑」に転任しますが、海上勤務のときに左足を痛めたことで、明治39年(1906)2月に退職して明治40年(1907)8月から予備役に編入されたのです。
このころから押川春浪の冒険小説にひかれて文筆業を志し、『冒険世界』『中学世界』で活躍をはじめます。
天狗倶楽部
春浪とは互いに酒好きなところからすっかり気が合い、親友の一人に加わって、天狗俱楽部のメンバーとなっただけでなく、天風というペンネームも、春波と一緒に考えたそうです。
ちなみに天狗俱楽部とは、押川春浪が中心となって結成されたスポーツ愛好・社交団体で、明治・大正期には黎明期のアマチュアスポーツ界を席巻し、なかでも野球と相撲の振興に大きな役割を果たしました。
天狗俱楽部の仲間たちとにぎやかで楽しい毎日を過ごしていましたが、それも突然終わりを告げます。
明治44年(1911)秋に、『東京朝日新聞』と天狗俱楽部や安部磯雄らとの野球害毒論論争が勃発し、天狗俱楽部側の完全勝利に終わりました。
ところが、当時の『冒険世界』主筆の春波は、野球擁護の記事を掲載させなかった会社の上司たちの行動に不満を抱いて、博文社をやめてしまったのです。
こうなると『冒険世界』は天狗俱楽部のメンバーが支えていたようなものなので、編集のほとんどが春波の立ち上げた『武侠世界』に移ってしまいました。
『冒険世界』主筆時代
天狗俱楽部のメンバーたちは、当然 天風もともに移るものと考えていました。
ところが、天風と河岡潮風の二人は『冒険世界』に残り、あろうことか天風は主筆となったのです。
これにメンバーは大いに怒りましたが、天風は理由を告げることはありませんでした。
というのも、じつは春波から直々に、自分が辞めた後の主筆を頼まれていたのです。
押川春波の『武侠世界』はたちまち『冒険世界』の読者を奪い去り、天風は大苦戦に陥ります。
そこで天風は、『妖魔王国』『極南の迷宮』『巨腕鉄公』などを『冒険世界』に次々と発表しました。
『極南の迷宮』は当時珍しいヒロイックファンタジーの翻案でした。
さらに、H.G.ウェルズ『宇宙戦争(掲載時題名・世界的大混乱)』やキプリングの未来小説、コナン・ドイルのSF、村山槐多の怪奇小説など次々と掲載するなど、業績を上げました。
さらに天風は、子供向けの単行本『海上生活 怒濤譚』(博文館、1912)を発表しています。
そのころ、天風が春浪の言葉に従って『冒険世界』を受け継いだことがわかると、天狗俱楽部のメンバーは天風の仲間に戻りました。
その後、大正6年(1917)夏に博文館の人員整理で天風はクビになり、『武侠世界』に入ったのです。
それに先立つ大正3年(1914)11月16日に、盟友の押川春浪が38歳で亡くなっており、もはやかつてのような自由奔放な暮らしには戻れなかったのはいうまでもありません。
阿武天風の冒険小説
ここで、『少年世界』に天風が多数発表した海洋冒険小説がどういう作品なのかを、あらためて見てみましょう。
『少年世界』連載の「少年海洋王」(1913.8~12)は、スペイン船とともに海に沈んだインカの宝をめぐる冒険譚。
『少年哨兵』(1915.1~8)は、日本の軍艦に乗り組んだ少年が超能力体験をして軍功をたてる事件を描きました。
『少年倶楽部』にも同様の傾向の作品を寄稿し、『樺太珍聞物語』(1916.7)では海軍少尉の肩書で日露戦争中の樺太の風物を描いています。
また、旧満州で鉄鉱山をさがす冒険譚『毒煙窟』(1918.1)のような作品も執筆したのです。
晩年の活躍
天風が『武侠世界』に移ってしばらくしたころ、今度は『武侠世界』特派員としてシベリア出兵の調査名目でシベリアへ渡りました。
このとき、春浪と親交のあった小島七郎とともに満州のハルビンで『西伯利新聞』を発行していますが、ほかにどんな活動をしていたのかは不明です。
大正14年(1925)頃に帰国、このときには『武侠世界』は休刊となっていたため、『キング』や『少年倶楽部』に作品を発表しています。
『少年倶楽部』に愛国小説『太陽は勝てり』(1926.1~27.11、単行本は平凡社から1930)を連載すると、おおいに評判となりました。
しかし、『太陽は勝てり』の休載中の昭和3年(1928)に死去、享年45歳でした。
天風の無茶苦茶な人生は、接点を持った人の多くが政治家や文筆家として成功していることから、なんだか もったいないようなきがします。
いっぽうで、ちょっと魅力的で、あこがれを抱かずにはおれないのです。
(この文章は、「阿武天風の軍事冒険小説–日米未来戦の系譜を中心に」上田信道『国際児童文学館紀要』10(128)(国際児童文学館、1995)、『快絶壮遊 天狗倶楽部』横田順彌(教育出版、1999)および『日本児童文学大事典』『日本近代文学大事典』の関連項目を参考に執筆しました。)
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