7月3日は、昭和14年(1939)に歴史学者の喜田貞吉が亡くなった日です。
現在、ブラタモリで大人気の歴史地理ですが、この分野の草分け的存在が喜田なのです。
今回は喜田の足跡をたどり、現代へのメッセージを探ってみましょう。
歴史地理研究会
喜田貞吉(きだ さだきち)は、明治4年(1871)5月24日、阿波国那賀郡櫛淵村、現在の徳島県小松島市で小農の父・辰吉、母・ヌイの三男として生まれました。
徳島中学を中退して明治26年(1893)に第三高等中学校卒業、東京帝国大学文科大学に進み、国史科を明治29年(1898)に卒業します。
その後も大学院に籍を置きつつ、真宗東京中学校講師をはじめ、千葉県私立成田中学校、新義真言宗豊山派尋常高等学校、東京専門学校、国学院などで教壇に立ったうえ、『蜜厳教報』の編集にも1年間従事しました。
明治32年(1899)4月には、同志とはかって日本歴史地理研究会を立ち上げると、10月からは研究誌『歴史地理』を創刊します。
文部省時代
幸田成友との共著で金港堂から『日本地理』『外国地理』の中等教科書を刊行し、くわえて各種の講義録も執筆しました。
この業績が認められて、明治34年(1901)5月には文部省図書審査官に任じられて、南北朝正閏問題が起こった明治44年(1911)2月までのおよそ10年間、教科書検定と国定教科書制度発足に伴う教科書編纂の仕事に従事しています。
またいっぽうで、明治38年(1905)から翌年にかけて、関野貞と平子尚を相手に、歴史に名高い法隆寺再建非再建論争と、平城京跡をめぐって激しく論を戦わせたのです。
なお喜田は、再建論に関する論文などにより、明治42年(1909)に文学博士の学位を授与されています。
明治39年(1906)7月からは、東京帝国大学文科大学講師嘱託に任じられ(大正2年(1912)まで)、明治41年(1908)2月からは、京都帝国大学文科大学校講師も嘱託されました。
いっぽうで、この年の9月からは教科書図書調査委員会主査委員、第二部員、起草担任を命ぜられて、明治43年(1910)には『国史之教育』と『韓国の併合と国史』を出版しています。
その後、この年の末に南北朝正閏問題が起こると、喜田は文部省を休職して官僚の道を捨て、教職専門となったのです。
研究者として
大正2年(1913)7月から京都帝国大学で専任講師となり、大正9年(1920)7月から大正13年(1924)は教授を務めていました。
さらに、東北帝国大学と京都帝国大学で講師を兼任し、「万年講師」こそよし、と独自の価値観を語っています。
いっぽうで、大正8年(1919)1月には個人雑誌『民族と歴史』(のちに『社会史研究』と改称)、昭和3年(1928)9月にも個人雑誌『東北文化研究』を創刊しました。
こうして喜田は、自由な発想によって多角的な研究を精力的に行いましたが、その中心には「日本民族の由来沿革」の歴史学的解明にあったのです。
喜田は研究の結果、「複合民族説」や「日鮮両民族同源論」を主張したことは、広く知られています。
昭和14年(1939)7月3日、69歳で没しました。
喜田の研究スタイル
喜田の研究は、文献史学を中心に、考古学、歴史地理学、民俗学と幅広い分野から古代史を総合的に研究したことが独自であるばかりか、在野的・土着的スタイルを貫いた点も特徴的です。
自ら素人と呼ぶ自由な発想から、次々と新しい問題を提起し、学会を刺激し続けました。
このうち、法隆寺再建非再建論争は学史に不朽の名を残すもので高く評価されています。
また、縄文時代の終わりをめぐるミネルヴァ論争はじめ、実に様々な論争を巻き起こしたことから、「ケンカ屋」の異名でも呼ばれたのは仕方ないのかもしれません。
その中でも注目すべきなのは、「特殊部落」の起源をめぐる論争です。
当時主流だった「異種族起源説」や「古代賤民起源説」を論破して、「専ら境遇の問題」と断定したことは、画期的であると同時に今日の同和問題研究のさきがけとなる先進的な研究といえるでしょう。
いじめられっ子・喜田貞吉
つねに論争をいとわなかった喜田ですが、その起源は幼少期にありました。
というのも、小学校時代まで ひどいいじめられっ子だったのです。
貧しい小作農の家に生まれたことや、身体的特徴をからかわれたり、馬鹿にされたりと、信じられないような屈辱的な扱いを受け続けていたのです。
こうした経験が、喜田の強靭な反骨精神や、野人的性格、差別に対する鋭い感受性を培うこととなったのでしょう。
さらに、喜田が生涯敬愛し続けた樋口健三(杏斎)というよき理解者がいたことも、見逃せない事実です。
「好きなものは旅行、嫌いなものは酒」と語る喜田は、ちょっと自己中心的とも思える頑固な面がありました。
いっぽうで、毎日欠かさず日記「随録日誌」を記し続けたことは、筆まめであると同時に、物事に執着する一面があることを教えてくれます。
そうしてみると、幼少期に培われた不条理に対する「怒り」が、喜田の最大の特徴であるバイタリティーとチャレンジスピリットの源となっているのかもしれません。
そして現在、いじめの問題が深刻となるなか、喜田が学問で戦い続けた生涯は、現代のわれわれに勇気を与えてくれるのではないでしょうか。
決していじめで命を絶ってはいけないのです。
(この文章は、『国史大辞典』『明治時代史大辞典』を参考に執筆しました。)
きのう(7月2日)
明日(7月4日)
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