7月7日は、昭和28年(1953)に銀幕のスター、阪東妻三郎が亡くなった日です。
そこで、「剣戟王」阪妻の生涯をたどり、現代へのメッセージを探ってみましょう。
俳優を目指して
阪東妻三郎(ばんどう つまさぶろう)は、明治34年(1901)12月4日に東京で生まれました。
出生地については、東京府南豊島郡淀橋町大字角筈を戸籍上の出生地、神田橋本町が実際の生誕地、日本橋馬喰町が父の営む店な場所とする説もありますが、定かではありません。
本名は田村伝吉で、父は長五郎、母は半で、兄弟姉妹は女一人に男三人、あるいは女二人・男二人と、ここでもいくつかの説があるようです。
早くに母を亡くし、父が相場に手を出した、あるいは商売に失敗したために厳しい幼少期を過ごしたといいます。
日本橋区の十思小学校、日本橋高等小学校を卒業すると、卒業証書を手に十五代市村羽左衛門に門下を請うものの断られ、十一世片岡仁左衛門に入門。
内弟子となって片岡千久満の芸名を与えられますが、2年あまりしても下働きばかりで、大歌舞伎に見切りをつけて、浅草で沢村宗五郎の弟子となり、沢村紀千助を名乗ります。
その後、劇団をいくつか渡った後、阪東妻三郎を名乗って一座を率いるも解散してしまいました。
「剣戟王」誕生
大正12年(1923)には、盟友の沢村四郎五郎や吉野二郎とともに、京都で時代劇のプロダクションを創始したマキノ省三の門下となります。
また、脚本家の寿々喜多呂九平とも知り合い、四人で新しい時代劇を求めて語り合ったといいます。
そうしたなか、寿々喜脚本の『鮮血の手形』で阪妻がはじめて主演に抜擢されると、一躍注目を浴びるようになりました。
こうして寿々喜脚本作品で、次々と青年の苦悩と激情を演じた阪妻は、一躍新しいタイプのスターとして人気を博していきます。
また、アメリカ映画のリズムと奇抜さを巧みに取り入れた新しいチャンバラ劇に観客は熱狂し、阪妻は「剣戟王」とよばれて不動の地位を得たのです。
やがて、みずから独立プロダクションを率いて、溌溂とした殺陣で一世を風靡しました。
阪妻の復活
しかし1920年代末から30年代前半は、マンネリズムに陥ったうえに作品にも恵まれず、その人気にも陰りがみえはじめたのです。
しかも映画は無声からトーキーへと移り変わると、悪声だった阪妻は変化に対応できずにプロダクションは解散に追い込まれ、阪妻の名声も地に落ちるかに見えました。
この阪妻を復活させたのが稲垣浩監督でした。
稲垣は、歌舞伎の名優たちを参考にして、悪声を逆に魅力ある声にするヒントを与えると、常人離れした努力で阪妻は新しい境地を切り開きます。
稲垣とは「親友以上」の深い交友関係をつくりあげて、『地獄の虫』(1938)、『江戸城最後の日』(1941)、「無法松の一生」(1943)と、かつてのチャンバラ・スター阪妻のイメージを塗り替える作品を作り上げたのです。
また、伊藤大輔監督の「王将」(1948)での名演は、歴史にその名を遺すものとなります。
昭和28年(1953)7月5日、「あばれ獅子」撮影中に脳膜出血で倒れ、そのまま二日後の7月7日に京都天龍寺若宮町の自宅で亡くなりました、享年51歳。
阪妻の子どもたちは、長男・高廣、三男・正和、四男・亮はともに俳優となりました。
また、現在でも名優・阪妻の人気は没後も伝説的に高く、毎年のように作品が揺曳されています。
「無法松の一生」
ここで注目したいのは、『無法松の一生』です。
北九州では、尊敬する人物として上位にいつも「無法松」の名があげられているのに驚かされます。
直木賞候補ともなった原作の岩下俊作『富島松五郎伝』の影響もあるのでしょうが、あげられる名前は「富島松五郎」ではなく、やはり「無法松」なのです。
当時、「剣戟王」で大スターの阪妻が、無知で貧しい車夫を演じることは、誰も想像できない衝撃的なものでした。
しかも、出演を決意すると、自分で人力車を引いて役柄を工夫したり、日常生活でも車夫の暮らしをまねるなどの努力が実り、ついに日本の映画史上に残る名演技へとつながったのです。
こうして無知で粗暴な人物ながら、驚くほど善良で純真な男となった無法松は、人びとの理想像となって語り伝えられることになりました。
映画の影響はすさまじく、ハイライトとなった小倉祇園太鼓では、実際の太鼓演奏スタイルが映画に似せて変化するなど、さまざまな事象を引き起こしているといいます。
このように、一本の映画が地域の誇りを再生し、地域のつながりを作り上げていくという現象は、映画の持つ力を私たちに教えてくれます。
そして、その映画の力の根源となっているのが、阪妻の名演技なのは言うまでもありません。
映画スターとして数々の伝説に彩られる阪東妻三郎の真価が、ここにあるのではないでしょうか。
(この文章は、『国史大辞典』『日本映画人名事典 男優編』『日本映画人名事典 監督編』『日本映画作品辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)
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