7月10日は、平成5年(1993)に作家の井伏鱒二が亡くなった日です。
そこで、井伏鱒二の生涯をふりかえってみましょう。
井伏鱒二の略歴
井伏鱒二(いぶせ ますじ)は、明治31年(1898)2月15日に広島県深安郡加茂村、現在の広島県福山市で、父・幾太(郁太)と母・美耶のあいだに生まれました。
本名は満寿二(ますじ)で、実家は「中ノ土居」という旧家で、鱒二は二男でした。
幼くして弟、伯母、父が相次いで亡くなり、鱒二も病弱だったといいます。
大正6年(1917)に20歳で中学を卒業すると、日本画家となるべく京都の橋本関雪の弟子を希望しますが、断られてしまいます。
そこで、早稲田の学生だった兄にすすめられて早稲田大学入学、さらに在学中に日本美術学校にも入学しました。
大正11年(1922)には文学部長片上伸の偏狭と専横がもとで修学意欲をなくして、早稲田と日本美術学校を中退してしまいます。
大正13年(1924)に一時期、東京四谷の出版社に努めたこともありました。
この頃、周囲の作家たちがマルクス主義に傾倒するのに疑問を持つようになって距離を取り、大正14年(1925)には佐藤春夫に師事します。
翌大正15年(1926)に結婚し、当時は新開地だった東京府豊多摩郡井荻村字下井草に新居を構えると、この地に終生住み続けることになるのです。
昭和3年(1928)「文芸都市」同人となり、『谷間』『山椒魚』(1929)を発表して作家生活をスタートさせています。
その後、『夜ふけと梅の花』『なつかしき現実』(1930)などを発表して文壇的地位を確立すると、『ジョン万次郎漂流記』(1937)で直木賞を受賞しました。
昭和16年(1941)には徴用されてシンガポールに渡って昭南タイムに勤務したのち、昭南日本学園に務めています。
また、この年の12月には、ロッティング原作の『ドリトル先生』シリーズ翻訳の最初となる『ドリトル先生アフリカ行き』を刊行しました。
昭和18年(1943)に徴用解除となると、帰国して三宅島噴火を題材とした『御神火』を連載しています。
昭和19年(1944)5月からは山梨県に疎開して作品発表をほとんど行わないまま終戦を迎え、昭和22年(1947)7月に帰京。
戦後は、『貸間あり』(1948)『本日休診』(1950)『駅前旅館』(1957)などの作品を次々と発表しました。
いっぽう、昭和23年(1948)6月には弟子の太宰治が心中して亡くなると、『太宰治のこと』を発表、その後は随筆『川釣り』、紀行文『晩春の旅』など、さまざまなジャンルの作品も手掛けています。
また、『黒い雨』(1966)を発表すると、野間文芸賞を受賞しました。
その後も活動をつづけ、昭和57年(1982)には、長く住み続けている地について、『荻窪物語』を執筆しています。
昭和41年(1966)には文化勲章を授与されたほか、平成2年(1990)には名誉都民となりました。
平成3年(1993)6月24日に緊急入院したあと、7月10に肺炎のため死去、享年95歳でした。
太宰治『富嶽百景』
井伏鱒二といえば思い出すのが太宰治『富嶽百景』に登場する姿です。
弟子である太宰にさりげなく優しい言葉をかけたり、女性を紹介したりとですを思いやる姿もすばらしいのですが、何より印象に残るのがパノラマ台でのくだりでしょう。
「井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸ひながら、放屁なされた。いかにも、つまらなさうであつた。」(太宰治『富嶽百景』)
本人は放屁していないと反論したのがまたも面白く、井伏鱒二の真骨頂といった感があります。
こうしてみると、井伏鱒二には太宰治を筆頭に、中村地平や小山祐士など多くの弟子がいたのも納得です。
『ドリトル先生』
井伏鱒二の数多い業績のなかでも、よく知られるのがヒュー・ロフティング原作『ドリトル先生』シリーズ全12巻の翻訳でしょう。
このシリーズでは、動物と話せるドリトル先生が世界各地を旅する冒険譚や、そこで知り合った動物たちから聞いた話などが収められています。
井伏は、1942年に『ドリトル先生船の旅』を手はじめに、『ドリトル先生「アフリカ行き」』が続きますが、1962年7月の『ドリトル先生物語全集』刊行で全巻がそろい、訳業が完成しました。
原作は、従軍中だったロフティングが第一次世界大戦の従軍中に、治療されることなく負傷した馬が射殺される苛酷な戦場にあって、それとは真逆の動物たちのユートピアを描いたものといわれています。
いっぽう、当時の日本は国粋調・軍国調の色濃い作品ばかりが発表されていました。
こうした状況を憂いた石井桃子が、シリーズの翻訳を鱒二に強く勧めるとともに、協力を惜しみまなかったといいます。
そのおかげで鱒二はドリトル先生シリーズの全編訳に成功することができたのです。
じつはこの翻訳・刊行は、戦時一色となりつつあった中で、この流れに抵抗する意味を持つ重要な仕事でした。
これにくわえて、原作者の持つ動物への愛情とユーモアの感覚に共感したことで、鱒二に翻訳への熱意が湧きあがり、美しい訳文が生み出されました。
こうして誕生した名訳は、世代を超えて現代でも多くの人たちに愛されているのです。
(この文章の引用箇所は、『太宰治全集 3』太宰治(筑摩書房、1998)からのものです。
また、『名誉都民小伝 平成2年』(東京都生活文化局コミュニティ文化部文化事業課 編集・発行、1991)、および『近代日本文学大事典』『日本児童文学大事典』『国史大辞典』を参考に執筆しました。)
きのう(7月9日)
明日(7月11日)
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