7月18日は、1866年(慶応2年6月7日)に幕府軍艦が大島を砲撃して第二次長州征伐(四境戦争)が開戦した日です。
そこで、日本史のターニングポイントとなった、この戦争をみてみましょう。
ちなみに、本文中の年月日は基本的に旧暦で、必要に応じて新暦年月日を併記しています。
禁門の変
ペリー来航以来強まる対外危機のなかで、強硬に攘夷を主張する長州藩の台頭に危機感を持った公武合体派は、文久3年(1863)8月18日に長州藩を御所警固から外して京から追い出します。(八月十八日政変)
これに対して長州藩は、京における政治勢力の回復を目指して、京にむけて大軍を送り込み侵攻を開始するものの、薩摩・会津藩をはじめとする守備諸藩軍により撃退されました。(「禁門の変」(「蛤御門の変」)
第一次長州征伐
禁門の変で御所にむけて発砲した長州軍は朝敵となり、朝廷は元治元年(1864)7月23日に長州藩追討の命を下します。
そこで幕府は、長州国境に約15万の兵を動員して防長二国を包囲する体制が整えたのです。
これに恐れをなした長州藩は、藩主親子が降伏、謝罪したうえ、禁門の変で兵を率いた国司信濃たち三家老に切腹を命じ、その首級を差し出して恭順しました。
こうして元治元年(1865)12月27日に総督の前尾張藩主徳川慶勝は、追討軍の撤兵を命令、一兵も損ずることなく長州藩を屈服させたことで、第一次長州征伐は幕府勝利のうちに終わったのです。
第二次長州征伐への道
ところが、長州藩内では元治の内戦を経て抗幕体制が成立すると、これに合わせて慶応元年(1865)5月には軍制改革と政治改革が断行されます。
いっぽうの幕府では、長州の状況をみて、慶応元年(1865)4月1日に長州再征の方針を打ち出しました。
さらに、第一次長州征伐後に長州への処分を通達するものの、長州藩が処分令の受理を拒否したこともあって、再度の長州を主張する主戦派が台頭したのです。
そして紀州藩主徳川茂承を御手先総督に任命し、征討軍は続々と大坂に集結しました。
1年ちかい大坂での足止めを経て、ついに武力討伐を決めた幕府は、大島口・石州口・小倉口と芸州口から長州藩へ攻め込む作戦をたてます。
ようやく慶応2年(1866)5月には先鋒総督・和歌山藩主徳川茂承と先鋒副総督・老中本荘伯耆守宗秀が広島に入り、老中・小笠原長行が小倉開善寺の本営入りしました。
また、兵も続々と集結し、いよいよ第二次長州征伐の準備が整ったのです。
開戦
ついに6月7日、幕府軍艦の大島砲撃をもって戦端が開かれます。
しかし大島口での戦いは、長州藩の反撃をうけると、征長軍は6月20日に大島から逃げ出して戦闘は終結してしまいます。(松山藩松平家藩第4話「長州征伐で奇兵隊に大敗」参照)
石州口でも、6月16日に参謀・大村益次郎が実質指揮を執る長州軍が益田に攻め込んで開戦すると、征長軍は壊滅させられて敗走し、早くも7月18日には浜田城を自ら焼くまでに追い込まれたのでした。
いっぽう、芸州口では、6月14日に先鋒を務める高田藩榊原家と彦根・与板藩井伊家の軍が国堺の小瀬川で開戦しますが、旧式装備の征討軍は総崩れとなって敗走します。
その後、「鬼水野」水野忠幹の率いる紀州藩屏と幕府陸軍が参戦して一進一退の攻防となり、長州藩兵の快進撃を食い止めることに成功したものの、結局は征長軍が敗北しました。(新宮藩水野家編第32回「征長軍敗北」参照)
小倉口でも、慶応2年(1866)6月17日に長州軍奇兵隊が小倉藩領田野浦を攻撃して戦いがはじまりました。(柳川藩立花家編第39回「小倉城炎上」参照)
九州での戦いも長州藩の優位にすすみ、8月1日には小倉藩が小倉城に自ら火をかけて、小倉口戦争も征長軍の敗北がほぼ確定したのです。
幕府軍の大敗とその影響
慶応3年(1867)1月23日に前年の12月25日に崩御した孝明天皇の国喪を名目として、征長軍の解兵令が発せられて、長州征伐は終了したのです。
長州征伐の失敗によって、幕府の権威は決定的に失墜し、諸藩は幕府の命令に従わなくなりました。
幕府も慶応2年(1866)7月20日に死去した十四代将軍徳川家茂のあとを、12月5日には徳川慶喜が十五代将軍につきますが、歴史の流れを変えることはできませんでした。
こうして慶応3年(1876)6月頃には、薩摩藩と長州藩が幕府を武力討伐することを決意したのです。
ここまでみたように、長州征伐は完全に失敗して幕府の権威は地に落ちました。
その後
長州藩の武力討伐を最後まで主張していた徳川慶喜は、幕府の再興をねらって慶応2年(1866)12月5日に将軍宣下を受けて15代将軍となりましたが、慶応3年(1867)10月14日に大政奉還を願い出ることになるのです。
いっぽうの長州藩を勝利に導いた高杉晋作は新しい時代をみることなく慶応3年(1867)4月14日に病没し、大村益次郎は明治2年(1869)11月5日に暗殺されました。
いっぽう、征長軍の先鋒総督を務めた和歌山藩主徳川茂承は、長州征伐で破綻した藩政を見事立て直して廃藩置県を迎え、明治時代には侯爵を受爵したあと明治39年(1906)8月20日に東京で病没、享年63歳でした。
また、「鬼水野」と恐れられた水野忠幹は、明治維新後に事業に失敗して財産の多くを失いました。
その後、男爵を受爵しますが、嫡男忠宜が明治35年(1902)1月26日、八甲田山雪中行軍遭難事件において、25歳で命を落としています。(新宮藩水野家編第43回「八甲田山の真実・水野中尉の死」参照)
こうして、勝者・敗者ともに、新しい時代の渦に巻き込まれていくことになるのです。
(この文章では敬称を略させていただきました。
また、『長州戦争』中公新書1840、野口武彦(中央公論新社、2006)、『幕長戦争』日本歴史叢書 新装版、三宅紹宣(吉川弘文館、2013)および『国史大辞典』関連項目を参考に執筆しています。)
きのう(7月17日)
明日(7月19日)
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