7月19日は、明治42年(1890)に初代中央気象台長の荒井郁之助が亡くなった日です。
そこで、郁之助の波乱に満ちた生涯と、失敗から学び社会に貢献する姿をみてみましょう。
荒井郁之助の略歴
荒井郁之助(あらい いくのすけ)は、天保7年4月29日(1836年6月12日)に、幕臣の荒井顕道の子として湯島天神下の組屋敷で生まれました。
父の顕道は『牧民金鑑』の編集者としてしられ、幕府代官を務めていました。
安政5年(1858)軍艦操練所世話心得、文久2年(1862)軍艦操練所頭取から、講武所取締・歩兵頭並を経て、明治元年(1868)正月の戊辰戦争勃発により軍艦頭となりました。
その後、榎本武揚らとともに旧幕府の軍艦を率いて蝦夷地に赴き、仮政府を樹立すると、海軍奉行に就任しました。
明治2年(1869)3月には、司令官として軍艦回天丸に乗艦し、土方歳三率いる陸軍兵が乗り込む蟠竜・高雄の二艦を引き連れて新政府軍艦隊が集結する宮古港に出撃して宮古湾海戦を戦うものの敗退し、箱館に戻ります。
五稜郭が開城した5月には捕らえられて、3年にわたり投獄されましたが、獄中で『英和対訳辞書』を編纂しています。
その後、明治5年(1872)1月に特赦により出獄すると、開拓使五等出仕を命ぜられ、開拓使仮学校の実質的校長となりましたが、職を辞して東京に戻ります。
『中外工業新報』を創刊したあと、明治10年(1877)内務省に出仕すると、地理局測量課長から地理局次長に就任し、標準時の制定を行いました。
明治23年(1890)中央気象台長に就任しますが、翌明治24年(1891)に退官し、のちに浦賀船渠の設立に参加し、監査役に就任しています。
明治42年(1909)7月19日に死去、74歳でした。
郁之助の失敗と再起
荒井郁之助は、戊辰戦争で旗艦開陽丸をはじめ、多くの艦を海難事故で失ったことで気象事業の重要性に気付いたのでした。
なお、世界の暴風警報は、1854年(安政元年)のクリミア戦争で、フランスのアンリ4世号の沈没事故をきっかけとしてはじまっています。
その後、郁之助が明治政府に出仕して開拓使に配されると、獄中で完成させた『英和対訳辞書』が出獄後に刊行されて開拓使辞書として大いに役立ったうえ、札幌農学校の設立に貢献しています。
いっぽう、明治時代の初めには、全国各地の燈台と、東京では工部省鉱山寮、海軍水路寮観象台、海星学校で、函館の気象測量所など、それぞれ独自に気象観測が実施されていました。
明治6年(1873)に工部省測量司ジョイネルの建議もあり、明治8年(1875)6月1日にジョイネルの指導で内務省地理寮量地課が赤坂区葵町3番地で気象観測をはじめました。
これが東京気象台のはじまりで、現在の「気象の日」の由来となっています。
気象事業の確立と標準時制定
明治10年(1877)には、地理寮が地理局と名を改めて、郁之助が内務省地理局の測量課長に就任し、気象事業の創設に心を砕くことになります。
また、この時に地方にも測候所がつくられて各地で観測が行われるようになります。
明治政府はこれらの情報をもとに、天気図の作成と暴風警報業務の開始を目指すことになりますが、これは郁之助の働きかけもあったとみてよいでしょう。
明治15年(1882)1月にはクニッピングを雇い入れて、測量値の単位をイギリス式からフランス式のメートル法と摂氏に改め、7月には東京気象台を旧江戸城本丸の麹町区代官町に移転しました。
クニッピングの指導により、電信を用いた観測業務が整備され、集信した各地の気象情報から天気図の作成に成功、さらに明治16年(1883)5月には、はじめてとなる暴風警報を発令したのです。
この成果を受けて、明治17年(1884)6月からは天気予報を行うまでになりました。
さらに、郁之助は明治18年(1885)には標準時を制定し、東経135度の子午線を日本標準時に定めます。
これは、前年の1884年(明治17年)に、ロンドン郊外のグリニッジを通る子午線が本初子午線、つまり経度0と定められるとともに、個々の時刻が標準時に定めされたのがきっかけでした。
これに伴い、グリニッジ時間よりもちょうど9時間早くなる東経135度を基準の子午線とし、さらに子午線の平均太陽時を中央標準時と定めたのです。
中央気象台設立
明治20年(1887)1月には東京気象台は中央気象台と改称し、8月には気象台測候所条例が公布されて中央気象台と各所の測候所を法的に位置つけました。
同時に、中央気象台を内務大臣直轄、測候所を地方長官の管理・監督下に置いて、地方測候所の経費は地方負担と定めたのです。
同年には新潟県で皆既日食を観測しました。
さらに明治23年(1890)8月には中央気象台官制が公布されて、郁之助が中央気象台の初代台長に就任します。
しかし、長年かけて整えた気象観測体制が安定して機能するのを確認するかのように、郁之助は在任わずか8か月で退任しました。
こうして郁之助が作り上げた観測・統計・予報の三課体制は大正8年(1919)まで続き、観測課では気象観測や観測機器検査のほか、地震、地磁気、空中電気の観測を行っています。
また、中央気象台は、明治28年(1895)には文部省に移管されますが、昭和18年(1943)に運輸通信省に移管されるまでの半世紀にわたって気象観測と研究で中心的役割を果たしたのです。
郁之助にみる理想の上司像
郁之助は部下を叱ったことがなく、底知れぬ包容力を持っていたそうです。
そして、謙遜家で、常に功績を部下に譲るところがありました。
わずか在任8ヶ月で台長の座を小林一知に譲ったのも、この性格のためといわれています。
なによりも、若き日に経験不足がまねいた失敗から、生涯をかける目標を定め、見事に実現したうえに、それが社会貢献となっている点は、もはや感動するほかありません。
(この文章では、敬称を略させていただきました。
また、『荒井郁之助伝略』(『回天艦長甲賀源吾伝』(石橋絢彦著・甲賀源吾刊行会発行1932)所収)、『海将荒井郁之助』福永恭介(森北書院、1943)および『国史大辞典』『明治時代史大辞典』『事典 近代日本の先覚者』の関連項目を参考に執筆しています。)
きのう(7月18日)
明日(7月20日)
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