旧柳北小学校は、地域で守った復興小学校で、現在は台東育英小学校の仮校舎として利用されています。
そこで今回は、私たちの町に近代建築が多い大きな要因、浅草橋・鳥越などが戦災を免れた理由をみてみましょう。
じつは、柳北小学校(赤矢印)が盾となって南からの劫火を防いだためです。
画像は昭和22年の空中写真で、黒いところが焼けなかった町です。 では、なぜ柳北小学校は焼けなかったのでしょうか。
じつは、柳北小学校は明治9年に、地域住民がお金を出し合って設立した古い学校です。
関東大震災で焼失しますが、地域住民の寄附などで再建するほど、柳北小学校は町の誇りでした。
画像は昭和7年の柳北小学校です。
しかし、昭和20年3月9日、東京大空襲により、児童3名が命を落としました。
この時、児童は宮城県遠刈田温泉に集団疎開していました。
進学準備のために6年生がこの日に帰還、その夜に空襲に遭ったのです。
しかし校舎は残りました。
その裏には、地元向柳原南町会を中心にした決死の消火活動があったのです。
地域住民で組織された警備団と職員が「柳北を燃やすな!」をスローガンに一致団結。
町に落ちた焼夷弾の炎を命がけで一つずつ消すとともに、一昼夜にわたって隣の蓬莱園の苑池からバケツリレーで校舎に水をかけ続けたのです。
こうして、柳北小学校の校舎を守られました。
柳北小学校は、鉄筋コンクリート造の復興小学校ですが、床が板張りで、火災には万全ではなかったのです。
決死の消火活動により、柳北小学校は空襲から守られました。
画像は柳北小学校の校章です。
そして柳北小学校が盾となり、神田川を越えて南から迫る劫火から守られました。
柳北小学校の奇跡ともいえる出来事は、残念ながら忘れられつつあります。
2001年に統廃合により廃校となりましたが、柳北小学校が歩んだ歴史を忘れるわけにはいきません。
ぜひこちらで柳北小学校の数奇な運命をご覧ください。
(2022年11月20日)
旧柳北小学校の校舎について、詳しくはこちらをご覧ください。
旧柳北小学校がどんな学校だったのか、ぜひこちらもご覧ください。
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