和倉橋よ、永遠なれ! 和倉橋(わぐらばし)④

前回まで和倉橋の歴史をたどってきました。

ここで最初の問題、橋名板の文字に戻ります。

「江戸自慢三十六興 深川八まん牡丹」(豊国・広重(平のや、元治1年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「江戸自慢三十六興 深川八まん牡丹」豊国・広重(平のや、元治1年)国立国会図書館デジタルコレクション】

お姉ちゃんにここまでの説明をして、それでどうなの?と尋ねたところ・・・。

逆に「谷崎作品に出てくるそば屋は今でもあるの?」と質問が返ってきました。

それってどういうこと?と聞いてみると、お姉ちゃんが説明してくれました。

昔ながらのよい町には、うまいそば屋と良い寿司屋、それに古いうなぎ屋があるはず!

そういう訳で、橋がなくなっても古くからの町が残っているのなら、この橋の記憶も町と共に人々の中に残って大切にされているに違いない、と言うのです。

人々の暮らしと結びついていれば、橋の象徴である橋名板にもみんなの思いが詰まって「生きた文字」になるのだ、とお姉ちゃんは力説します。

よく分からなかったのですが、とにかく再訪してそば屋を探すことにしました。

「江戸名所百人美女 深川八幡」(歌川豊国(卜山口、安政4年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「江戸名所百人美女 深川八幡」歌川豊国(卜山口、安政4年)国立国会図書館デジタルコレクション】

何度か現地を訪ねましたが、残念ながらそれらしきそば屋は見当たらず、かわりに自家焙煎のコーヒー豆を賣お店がちらほらあったよ、と報告したのでした。

「やっぱりね、この橋名板の文字は、もはや町の暮らしとは縁のないものなんだ!」勝ち誇って言うお姉ちゃんの姿に、若干意味不明ですが・・・と言いそうになるのをぐっとこらえて、「で、この字って書家の字なの?」と聞き返すと、「見た目と違って、結構しっかりした字だと思うよ。楽しい感じは作り方のせいかな。」

じつはおいしいそば食べたかっただけじゃないの、という疑念を残しつつも、もう少し丁寧にお姉ちゃんの意見を聞いてみることにしました。

彼女はまず、橋は町の入り口であり、町の顔である、という前提に立っています。

ですので、和倉橋もかつては和倉の町の象徴的存在だったはず。

そして現在、川は埋め立てられて橋は消え、わずかに親柱の半数を残すのみ。

橋が失われた時点で、和倉橋がその置かれた環境から町の顔として象徴的役割を果たすことはなくなるわけです。

それでもなお、この橋が町の象徴であり続けるとしたら、それは町に住む人々がこの橋に強く思い入れをして、大切にしているからに違いありません。

彼女が推察するには、すでに橋が失われた状態でこの町に移り住んでも、川や橋に特別な思い入れを抱くのは難しいのではないか、逆に、川や橋があった時代に親しんだ古い住民が多いと、橋の遺跡は特別な存在として大切に思われ続けるのではないか。

だからこそ、今の町をじっくり見て町に暮らす人々を知ることで、失われた橋への思いの丈を窺うことができるに違いありません。

その事実を端的に知るには、町の社交場的存在であるそば屋や寿司屋、うなぎ屋を見ればわかるはず。

おやおや、何だか妙に説得力があるではありませんか!

そしてなにより、自分の考えをはっきりと語るたくましい姿に、私は大いに驚いたのでした。

案内図の残る旧和倉橋の名前の画像。

じつは、現地で私が感じたところでは、彼女のいうことがある意味正しいと感じてました。

というのも、かつての小さな渡し船が間を縫っていった、幾艘も縦に列んだ「川幅よりも長そうな荷足りや伝馬」のある愛すべき光景は、すでに戦後の高度成長期に消えてなくなっています。

そしてその時、水質の悪化した油堀川は、悪臭や害虫発生などの問題の元凶というマイナスイメージで見られるようになって、地元の反対もなく高速道路用地となって消えていったのです。

そうした事実を裏付けるかのように、現在は和倉橋の名を案内図に載っているくらいしか見つけられませんでしたし、かつての油堀川も全天候型の自転車専用道みたいになっています。

和倉橋親柱(北側)の画像。

視野を広げて各地の事例を見ると、川を取り巻く環境が変わると、そこで暮らす人々の生業が変わったり、土地利用が変化して住民自体が入れ替わるなどした結果、町がすっかり様変わりすることは珍しくありません。

私から見て、この町に暮らす人たちが和倉橋の遺跡に対して深い愛着や強い愛着を持っているようには感じられませんでした。

そこまで話すと、お姉ちゃんが一言、「和倉橋への愛情も何も、とっくに橋そのものといっしょに消えて無くなってるんでしょ。」

和倉橋の橋名板(北側)の画像。

続けて、「でもね、町が生まれ変わってきっと新しい顔が出来てるんじゃないかなあ。江戸時代から直接のつながりは薄れても、どっかでつながって町も人も生きていくんだよ。」

確かにそうだね、これからこの町で暮らす人たちに和倉橋の遺跡が大切にされるといいね、などと二人で話したのでした。

「だって、この橋名板、なんかかわいいんだもん!」

こうして今はなき和倉橋も、私と娘の大切な思い出とともに、深く心に残っているのでした。

この文章を作成するにあたって以下の文献を参考にしました。(順不同敬称略)

また、文中では敬称を省略させていただきました。

石川悌二『東京の橋 -生きている江戸の歴史-』1977新人物往来社、

伊東孝『東京の橋―水辺の都市環境』1986 鹿島出版会、

東京都建設局道路管理部道路橋梁課編『東京の橋と景観(改訂版)』1987東京都情報連絡室情報公開部都民情報課、

紅林章央『東京の橋 100選+100』2018都政新報社

次回は弁天橋です。

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