前回からR君、ここまで一気に話してのどが渇いたのか、冷め切ったお茶をグビリと飲んで一言。
「ここでちょっと豆知識を」ん、豆知識?と思った私にR君が畳みかけてきます。
「ここまでのは表向き、丸ノ内線には実はもっとたくさんの困難が降りかかっていたのです。」
ここでふたたびR君の話のダイジェストをお届けしましょう。
実は、GHQはさっき(前回)話に出た帝都高速度交通営団を廃止するつもりだったんやわ。
営団が戦争遂行目的の組織とみなされたのですね。
これはいかん、ということで政府と一丸となって説得にあたって、なんとか廃止を免れたのですが、これが建設決定から着工まで二年もかかった理由らしいです。
もちろん、建設資材が不足してたのも無視できない理由ですが・・・。
次に、あの昭和28年の計画変更です。
なんか変ですよね、工事始まっちゃってるのに。
あれ、実は計画段階では道路とかではなく、一般の土地を通すつもりだったみたいです。
神田周辺は地下鉄を通せるような大きな道が少ないのわかります?
なんでも、これだけのプロジェクトだからみんな協力してくれると思ったらしい。
なにせお金がないので全部開削工法でするくらいだから、用地確保が出来なかったみたいです。
また、霞が関、国会議事堂なんかの国の中枢機関の下を通るのも問題になったんです。
だからあのあたりだけ、日本で初めての「ルーフシールド工法」が採用されたんですよ。
現在トンネル工事でよく使うシールド工法の最初の事例で、それは今でも国会議事堂駅あたりでその痕跡が見れます。
いつの時代も・・・まあ、ここからは言わんときましょう。
と言ってにやりと笑います。
R君、山場を越えたのか、ほっと一息ついたあと、話を続けます。
結局、丸ノ内線は着工から8年(戦中を含めると17年)、巨額の費用(278億円:メトロアーカイブによる)をかけた一大プロジェクトになったんです。
こうして日本で四番目、東京では二番目の地下鉄が出来たんですね。
生コンを大量に使う今の土木工事スタイルも、この地下鉄建設工事からはじまっています。
これだけ苦労して造った丸ノ内線、開業時はものすごい人でごった返したそうです。
スカーレットの目につく車体、独特のロゴなんかもあって、いわば戦後復興の象徴みたいな感じになったんですね。
そして、丸ノ内線の大成功を受けて、今見るような地下鉄だらけの東京が生まれたわけです。
「なるほど」とか、「そうだよね」とか、適当に相槌を打ったものの、R君の話は私の知らないことだらけです。
「なかなか侮れないやつ」、R君の圧倒的知識量に脱帽しつつも、どこか油断ならない曲者さにすっかり意地をはってしまい、素直になれません。
「知らなかった」「教えてくれてありがとう!」の言葉がどうしても言えないのです。
しかしその一方で、はじめてこの分野で気の合う仲間を得た喜びをかみしめたのでした。
ここまで地下鉄丸ノ内線建設についてR君に説明してもらいました。
次回ではこの橋と私の劇的な再会につてのお話しです。
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