鳥蔵柳浅の古典落語を歩く、今回は前回に続いて「おふみ」、その舞台を歩いてみたいと思います。
主な舞台となった酒屋があった日本橋辺。
ここは言わずと知れた一大商業地です。
ただ、酒は液体で重いので、これを扱う大きなお店は水運の便が良いところに限られてきます。
ですので、江戸時代には日本橋にお酒を扱う大店は多くなかったようです。
これが明治になると鉄道輸送が主になってきますので、このあたりの設定にも明治と言う時代を感じることができます。
定吉が赤ん坊と置いてけぼりにされた路地も、お店からあまり遠いと赤ん坊に何かあると困りますので、そう遠くない場所かと推察できます。
日本橋室町あたりから裏路地がありますので、このあたりかと思うところです。
今度は旦那とお文の愛の巣周辺を見てみましょう。
お文が囲われていた柳橋同朋町は、現在の中央区東日本橋二丁目27番地にあたります。
神田川に沿った場所で、柳橋の袂、神田川の土手には柳並木、船宿が並ぶという風情ある場所でした。
すぐ近くの両国広小路は見世物興行などで大賑わいですが、通り一本入ったここいらは大分静かだったようです。
ここに妾宅を置いた旦那の趣味が分かりますし、経済的にもかなり余裕があったものと推察できます。
柳橋同朋町から柳橋を北に渡れば、そこは柳橋花柳界でした。
すぐに右に折れて、当時の柳光亭通りを左に折れて進むと、奥州街道(現在の江戸通り)にあたる前に第六天社の跡に着きます。
現在は東隣にあった篠塚稲荷がもとの位置にありますので、その一区画が第六天社でした。
この通に面した部分が町屋でしたので、ここに慶庵「雀屋」がお店を構えていたことになります。
ちなみに、第六天社は関東大震災で被災して現在は蔵前一丁目に移転しますので、この辺りも明治時代の設定の名残が見られます。
日本橋から日本橋室町を抜けて柳橋同朋町、柳橋を渡って篠塚稲荷、足を延ばして蔵前の榊神社まで、およそ2.3㎞の道のりでした。
みなさんも古典落語「おふみ」ゆかりの地を歩いてみませんか?
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