前回では大丸のあった通旅篭町と通油町の繁栄についてみてきました。
今回は、「町のシンボル」大丸についてみていきたいと思います。
大丸とは江戸時代以来下村家の木綿呉服店の屋号です。
そのはじめは、享保2年(1717)京都伏見の京町で初代彦右衛門(正啓)が興した大文字屋呉服店でした。
〇に大の字をあしらった暖簾が目印、手ぬぐいや木綿(布と糸)の店前正札現金販売で大きく売り上げを伸ばし、わずか十年ほどで大坂心斎橋や名古屋本町に支店を出すまでの大成功を収めます。
ところで、店前正札現金販売というのは、客がお店に行くと商品に値札が付いていて、それを現金で買うスタイル。
今では普通ですが、お客によって価格が変わり、掛け売り(代金を後からまとめて払う方式)が主流だった当時では、わかりやすさでお客が大喜びする画期的な方式でした。
それから全国にバイヤーを派遣して仕入を強化、資金を前貸集荷(生産者や仲買に事前に製作・仕入の資金を貸し与える方式)を展開してサプライチェーンを確立していきます。
そうして得た利益で、今度は京都烏丸上長者町の小紅屋を買収、染色と仕上げの工程を一気に整備します。
こうして十年以上に渡る準備を経て万全の体制を作り上げたところで、寛保3年(1743)に江戸の大伝馬町に銀229貫目という莫大な資金をもって進出しました。
このロードマップは初代の遺訓に沿ったものだというから驚きです。
そして前回に見た、当時の将軍が通る御成道として栄えた本町通りと、元吉原の花柳街の目抜き通りである大門通りという二つの大通りの交差点は当時の江戸で最もにぎわった場所に巨大な店が出現したのです。
さすがは大丸、進出準備もぬかりありません。
開店前から取引を約束した業者には荷物の中に〇に大の字を染めぬいた萌黄地の大判の風呂敷をたくさん入れました。
すると、風呂敷というものが普及していなかったので、先方がこの派手な大丸風呂敷を重宝して使うことで事前に宣伝するといった塩梅です。
準備万端、いよいよ開店すると、たちまち評判となり、開店からわずか2年後の延享2年(1745)、さらに10年後の宝暦5年(1735)に店の敷地を拡充するに至ります。
その後も店舗の拡大が続き、寛政年間(1789~1801)には間口36間(65m)、奥行26間(47m)、1,000坪近い巨大店舗となって、店の裏に「大丸新道」という新しい道路ができるほど。
こうして大丸屋は駿河町の越後屋、日本橋の白木屋とならぶ呉服店となり、錦絵や川柳の題材になるほどの人気を博したのでした。
その後も幕府などからの度重なる御用金の要請や、幾度にも及ぶ火災(明治8年までに8回)に苦しめられながらも大丸の繁栄は続きました。
そして、明治6年(1873)12月9日の火事で類焼した際の様子は、長谷川時雨『旧聞日本橋』で描かれています。
幸いなことにその後の罹災は無く、千鳥橋編で見た明治14年1月26日の「松枝町大火」と続く明治14年2月11日大火ではお抱えの火消「は組」の活躍などで何とか類焼を免れてました。
江戸の名物とまで言われた火災は、店舗焼失という大きな損失を出すものの、その後の復興では飛躍的に売り上げを伸ばすという不思議な代物だったといわれていますので、一般の感覚とはかなりの隔たりがあったそうです。
こうして長谷川時雨の記す「大丸はその近所の者にとって、何がなし目標点だった。物珍らしい見物みものがあれば、みな大丸の角に集まってゆく。鉄道馬車がはじめて通った時もそうなら、西洋人が来たと騒いで駈附けるのも大丸であるし、お開帳の休憩もそこであった。」【『旧聞日本橋』】という風になったのです。
長谷川はさらに、地域の店の多くが大丸と取引を行っていることを記して地域の経済のかなりの部分を大丸が担っていたという地元出身ならではの情報も教えてくれます。
ついに大丸が地域のランドマーク以上の存在となりました。
次回は、大丸のその後についてみてきたいと思います。
大丸呉服店がお庭番の隠密御用の衣裳を受け持っていたというのは本当ですか