みなさんは写楽や歌麿の浮世絵をご覧になったことがあるでしょうか?
また、山東京伝や十返舎一九などの作家の名を聞いたことはありますか?
これらの作品を世に送り出した名プロデューサーが蔦屋重三郎、そのお店が東京都中央区日本橋小伝馬町にあったと聞くと、意外に思うかもしれません。
現在連載中の「東京 橋の物語」緑橋編で、この橋にほど近い場所に、江戸を代表する大店の大丸があり、蔦屋重三郎の書肆があったこと、またこの町で女流文学者の長谷川時雨が生まれたことを書きました。
このように、江戸時代には日本橋大伝馬町が出版文化の中心だったのです。
そこで今回は、蔦屋重三郎の事績をたどり、彼が構えた書肆「耕雲堂」の跡地を訪ねてみたいと思います。
蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)〔1750~97〕は、蔦重(つたじゅう)または蔦十と俗に呼ばれ、耕書堂という版元(出版社)を経営した人で、富士山形に蔦の葉をあしらった印を家標(ロゴマーク)としていました。
寛延3年(1750)1月に吉原の娼家の子として生まれ、本名は、姓は丸山、名は柯理(からまる)と、かなり変わった名前です。
彼の菩提寺である浅草正法寺の六樹園碑文によると、父は重助、母は広瀬氏、幼少の頃に吉原仲の町の茶屋・蔦屋を経営する喜多川氏の養子となっています。
蔦重は成長するとお茶屋の主人に飽き足らず、安永のはじめ頃(1772ころ)新吉原五十間道東側(吉原大門口)に書肆(本屋)を開業しました。
安永4年(1774)に北尾重政画「一目千本花すまひ」を初めて版元として刊行します。
続いて安永5年(1776)には山崎金兵衛との合版で勝川春章と北尾重政合作の「絵本青楼美人合姿鏡」を出版すると、これが最初のヒットとなりました。
この利益を使って、この年に吉原の細見発行の株を得て版元になっています。このとき、蔦重は弱冠27歳。
その後、彼の創意工夫で蔦屋の吉原細見は空前のヒット作となり、大成功を納めます。
彼の創意工夫についてはのちに詳しく見ることとして、吉原細見で得た利益で天明3年(1783)9月には吉原から通油町南側中程にあった地本問屋(じほんどいや、地本とは江戸で作る書物のこと)丸屋小兵衛の株を買収して店をここに移します。
この蔦屋耕書堂の様子は淺草庵市人著・葛飾北斎画『東都遊』(享和2年(1802))に描かれています。
ここに吉原細見を地元吉原で売る事業形態から、洒落本、黄表紙、絵本、錦絵という出版物を幅広く制作して販売する形態へとビジネスを発展させることに成功したのです。
もちろん、吉原細見の製造販売も続けるのですが、店舗移転が吉原に来たいけど行くことができない人々という隠れた需要を掘り起こすとになって、こちらも売り上げをさらに延ばすことになりました。
蔦屋重三郎のスゴさの一つは、江戸っ子のニーズを知り尽くした並外れたマーケッターであることでしょう。
このことが彼の成功に導く上で大いに役立っているのです。
しかし彼の本領は別のところにありました。
彼には高い文才と共に芸術のみならず芸術家の才能を見抜き育てるという稀有な能力があったのです。
彼が得た巨万の富は才能の発掘と育成に惜しみなくつぎ込まれ、次々と新しい才能を世に送り出しました。
そしてそれが新たなムーブメントを作り出していきます。
ここまで蔦重のビジネスが成功するまでを見てきました。
次回からは蔦重が実際に成功したビジネスについて具体的に見ていきたいと思います。
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