最後の殿様
明治維新前後、激動する時代に生きた殿様たちを描く「維新の殿様」出羽国矢島藩編です。
今回の生駒家・羽後矢島藩は明治新政府が設けた藩で、最後に誕生した藩でした。
生駒親敬とその妻江美はいかにして激動の時代を乗り切ったのでしょうか?
生駒家の歴史(①話参照)
戦国時代に美濃で生まれた初代親正は、尾張の織田信長に仕え、後に羽柴(豊臣)秀吉仕えると数々の武功を上げて讃岐一国17万石を与えられます。
しかし、寛永14年(1637)、親正の曾孫、三代藩主高俊の代になると「生駒騒動」とよばれる御家騒動を起こして出羽の矢島1万石に減封されました。
しかもその後、与えられた所領1万石は8千石と2千石の二家に分けられましたので、生駒家は大名ではなくなり、旗本として江戸時代を過ごすことになります。
生駒親敬襲名(①話参照)
嘉永2年(1849)12月、十四代親道に待望の男子が生まれ、親敬(ちかゆき)と名乗って安政2年(1856)に十五代当主を襲名します。
大政奉還(②話参照)
慶應3年(1867)10月14日、将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還したという一報に接した親敬は、すぐさま松原佐久と小助川壬敦を派遣して朝廷へ恭順を申し出たのです。
新政府から親敬に奥羽鎮撫使の指揮下に入るよう指示があり、慶應4年3月に旧幕府許可を得て、奥羽鎮撫使の指揮下に入るため領国の出羽矢島へ赴き、来るべき戦に備えました。
秋田戦争開戦(②話参照)
ついに4月には仙台に赴任した鎮撫総督九条道孝から秋田の諸藩に庄内追討の命が出されると、庄内藩への侵攻作戦を開始。
しかし、作戦は完全に失敗し、庄内藩領に入ることなく撤退してしまいます。
さらに庄内藩の猛将酒井吉之丞の攻撃に官軍の主力は総崩れとなって撤退に次ぐ撤退を重ね、湯沢、横手などの重要拠点を次々と失っていきました。
矢島の戦い(③話参照)
そんな中、慶応4年(1868)7月28日には庄内兵が矢島を奇襲します。
久保田藩兵の援軍と共に生駒親敬みずから迎撃にあたりましたが庄内兵にかなわず、ついに親敬は自ら陣屋に火を放って撤退せざるを得ませんでした。
秋田戦争終結(④話参照)
秋田戦争が続く中、越後方面での官軍勝利などもあって次々と東北諸藩が降伏すると、列藩同盟軍は総崩れとなっていきます。
その後、9月26日には最後まで抵抗を続けていた庄内藩がようやく降伏します。
ここに至って、ようやく秋田戦争は官軍勝利のもとで終結したのでした。
矢島藩成立(⑤話参照)
戊辰戦争における論功行賞の結果、賞典禄1,000石が与えられるとともに、明治元年(1868)11月30日付で諸侯への昇格が認められ、生駒親敬は従五位下 讃岐守に叙任されます。
ここに、一万五千二百石の矢島藩が誕生し、寛永17年(1640)の生駒騒動で失った大名家の家格を240年ぶりに回復したのでした。
版籍奉還と廃藩置県(⑥話参照)
明治4年(1871)に廃藩置県が行われて、わずか2年半で矢島藩は消滅してしまいます。
そしてさらに明治9年(1876)には秩禄処分が断行されて、家禄と戊辰戦争の功績で与えられた賞典禄までが廃止されてしまいました。
先祖から受け継いできた領国はもちろん、命がけの働きで手にした賞典禄1,000石はわずか7年間で廃止となってしまったのです。
親敬死す(⑥話参照)
そして明治13年(1880)9月9日に下谷竹町の邸宅で、親敬は32歳で病死します。
彼の死後、その功績によって明治29年9月に従四位が贈られました。
親敬の妻・江美は家督を継ぐと、夫が残した華族・生駒男爵家を守るべく奮闘します。
まず、長女年子に親戚筋の生駒親承(ちかつぐ)を婿養子に迎え明治16年(1883)に生駒家の家督継承と襲爵を行いました。
しかし、明治19年1月16日に若干18歳で親承が病死してしまったのです。
そこで今度は二女・巖子に親忠(池田慶政の4男)を婿養子に迎えると、明治19年(1886)に家督を継承するとともに、男爵に叙爵されます。
親忠は貴族院議員として活躍、ここに生駒男爵家はようやく安定したのでした。
金刀比羅神社(東京都台東区台東2丁目24)はかつて生駒家の屋敷にあった神社です。
江戸時代には神社は開放されて、毎月10日の縁日には市が立つにぎわいだったそうです。
現在、屋敷の跡地には末広会商店街をはじめ、昭和の雰囲気を残す下町が広がっています。
生駒家ゆかりの金刀比羅神社で親敬がたどった激動の幕末維新の頃を偲んでみませんか?
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