明治維新前後、激動する時代に生きた殿様たちの姿を描く「維新の殿様」、今回は名門織田家の末裔、丹波柏原藩の織田信親が主人公です。
織田信親率いる柏原藩は、小さくてもチームワークで大藩に負けない働きが出来るんだ、ということを教えてくれる貴重な実例となっています。
織田信長の次男信雄は、本能寺の変の後、清州百万石の大大名になるものの、小田原の陣後に転封を拒否したことで豊臣秀吉の怒りを買って下野国烏山に配流となってしまいます。
しかし徳川家康がとりなしてなんとか織田家は存続することができました。
そして秀吉の死後、信雄は関ヶ原の役や大坂夏の陣の働きで家康から五万石を与えられたのです。
信雄の死後、五男高長が大和国松山三万石を相続して大和国松山藩が誕生したものの、四代信武の治世に「宇陀崩れ」とよばれる御家騒動に発展した結果、丹波国柏原二万石へ転封されてしまいます。
織田信親藩主襲名(③話参照)
延宝6年(1678)に誕生した柏原藩は財政逼迫やお家騒動に悩まされながらも幕末まで存続しました。
そして先代藩主死去に伴い慶応元年(1865)に備中国成羽藩主山崎治正の次男を養子に迎えて家督を継がせ、柏原藩十四代藩主織田信親(のぶちか)が誕生したのです。
大政奉還(③話参照)
信親は藩主につくと、藩儒小島省斎を中心に執政津田要、側用人田辺輝実らの働きでいち早く一藩勤王を唱えて、藩政改革と軍制刷新を断行します。
そして慶應3年(1867)10月14日に将軍徳川慶喜が突然、朝廷に大政奉還しました。
この一報を聞いた信親は、幕府の禁を犯して無届で江戸を発して上洛を強行したのです。
そして上洛すると12月8日に朝廷から白川口守備を命ぜられました。
こうした幕府を軽んじる行動は佐幕派の怒りを買って、慶應3年(1867)薩摩藩邸焼討事件の折には江戸市中警護の庄内藩兵から江戸藩邸が砲撃されることになります。
慶應4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いでは信親は病気をおして参陣し、公卿門・東久世通禧邸・坂本口を守備しました。
そして薩摩藩兵と共同して会津藩火薬製造所を占領する大きな戦果をあげています。
その後、柏原藩は山陰道鎮撫総督西園寺公望の従兵を命ぜられて従軍して山陰諸藩を新政府へ恭順させる働きをしたのでした。
ここまで柏原藩は小藩とはいえ見事な働きを見せて、明治政府樹立に大きく貢献したのです。
版籍奉還と廃藩置県(④話参照)
信親と柏原藩は、東京奠都以降は大きな働きもなく過ごしています。
そして明治4年(1871)7月には廃藩置県が断行されて柏原藩は消滅しました。
信親の織田信長顕彰(⑤話参照)
織田信長を継いで天下人となった豊臣秀吉や徳川家康は神となってそれぞれ立派な神社が造られる一方で、信長を祀る大規模な神殿がありませんでした。
そこで、明治3年(1870)3月に信親が請願を行った結果、6月には安土總見寺に信長を祀る祠が完成して信長の祭典を初めて神式で行うこととなります。
さらに同年10月には、明治政府から織田祠を改めて「建勲」の神号が贈られたのち、明治8年(1875)、建勲神社を京都の街を見下ろす船岡山に移すことに成功したのです。
そして信親は、新しくできたばかりの建勲神社に金800両を献じたのでした。
信親は明治17年(1884)に子爵を授爵、宮内省で宮内省主猟官を長く務めます。
大正10年(1921年)には高齢を理由に辞職し、昭和2年(1927)10月30日に78歳で没しました。
柏原藩上屋敷跡は浅草寺町(東京都台東区松が谷3丁目)に、下屋敷は浅草砂利町(現在の東京都台東区浅草5丁目)にありました。
また、織田子爵邸は浅草小島町(現在の東京都台東区小島1丁目)にありました。
いずれも明確な遺構は残っていませんが、周囲には名所が多く、散策するのが楽しい場所です。
織田信親ゆかりの地を訪ねて、彼と家臣たちの名門らしからぬ若々しくて小気味よい幕末維新の活躍を偲んでみてはいかがでしょうか。
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