アキハバラの歴史 秋葉原の誕生日①

みなさん秋葉原の誕生日をご存知ですか?

それは、明治23年(1890)11月1日、貨物駅として秋葉原駅が開業した時なのです!

それまで秋葉原(アキバハラ)あるいは秋葉の原(アキバノハラ)と呼ばれたこの地が、この時から秋葉原(アキハバラ)と呼ばれることになったのです。

そこで今回は、秋葉原の誕生日をお祝いして、秋葉原の持つ不屈の歴史を辿ってみたいと思います。

「東都下谷繪圖」(戸松昇訓(尾張屋清七、嘉永4年)国立国会図書館デジタルコレクション 〔部分に加筆〕)の画像。
【「東都下谷繪圖」戸松昇訓(尾張屋清七、嘉永4年)国立国会図書館デジタルコレクション 〔部分に加筆〕 地図の右が北 赤○部分が現在のJR秋葉原駅】

秋葉原誕生前夜

江戸時代を通じて中小の大名屋敷が並んでいたこの地に、明治2年(1869)末、大火が襲い、町は灰燼と帰してしまいました。

そのため、復興にあたって巨大な火除け地が設けられ、その中央に明治天皇の勅命で鎮火神社が祀られます。

火伏と言えば秋葉権現、そこでこの地は「秋葉原(アキバハラ)」(『武江年表』)あるいは「秋葉の原(アキバノハラ)」(『明治世相百話』)、「あきはっぱら」、「あきばがはら」などと呼ぶようになったのです。

明治9年東京全図【現在の秋葉原駅周辺】(国立公文書館デジタルアーカイブ)の画像。
【明治9年東京全図【現在の秋葉原駅周辺】(国立公文書館デジタルアーカイブ)】

遊び場・秋葉原

こうしてできた火除け地という広大な原っぱは、庶民の格好の遊び場になります。

山本笑月は『明治世相百話』の中で、「神田佐久間町の秋葉の原といえば、神田っ子には思い出の多い遊び場、元は火除け地で火防の秋葉神社が祀ってあった。方二三町の空き地で最初の貸自転車があり、貸馬屋があり、花相撲や軽技もときどき興行、チャリネの曲馬も第1回はここで大当たり」と記しています。

笑月のいうチャリネの曲馬とは、明治19年にイタリアから来たチャリネ曲馬団のサーカス興行のことで、当時大いに話題となったのでした。

東京都台東区松が谷3丁目の秋葉神社の画像。
【東京都台東区松が谷3丁目の秋葉神社

鉄道計画

その後、明治16年(1883)に日本最初の私鉄日本鉄道が上野-熊谷間、続いて明治18年(1885)には赤羽-品川間に路線を開通させます。

さらに翌19年(1886)には、貨物専用線上野-神田佐久間町河岸(神田川北岸の河岸、現在の秋葉原)建設計画を発表したのです。

ところが、この計画に地元は猛反対、その理由は、「地平鉄道」、つまり地上路線を建設した場合、通過列車によって道路交通が阻害されるというものでした。

このため、建設工事は遅れたものの強行的に建設が進み、明治23年(1890)に計画路線が全面開通します。

この中で明治21年(1888)には秋葉神社がこの地から東京都台東区松が谷3丁目に移されたのでした。(「維新の殿様 柏原藩織田家編」参照)

開業当初の秋葉原駅(開業130周年記念品掲載写真)の画像。
【開業当初の秋葉原駅(開業130周年記念品掲載写真)】

ここまで秋葉原の名前の源流となった秋葉神社と秋葉の原跡地について見てきました。

次回は「秋葉原駅」と「秋葉原」誕生について見ていくことにしましょう。

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