前回は秋葉神社が祀られ、新たに遊興の地として秋葉の原が発展するまでを見てきました。
そこで今回は、秋葉原の地名が誕生したいきさつを探ってみたいと思います。
秋葉原誕生
こうして秋葉神社の跡地には先に見たように、明治23年(1890)に、日本鉄道会社秋葉原貨物取扱所が開設されました。
この時、貨物駅が「秋葉原駅」と名付けられて「秋葉原」が誕生したのです。
じつをいうと、開業当初は「秋葉原」に「あきばのはら」と訓じていたのですが、せっかちな江戸っ子はすぐにこれを短縮して「あきはばら」と俗称するようになります。
すると、これがまたたく間に広がって定着、後に正式名称も「あきはばら」に変更されるとともに、町の名称にまでなりました。
ちなみにこの駅名、幼少期に近くの岩本町に住んでいた三田村鳶魚はエッセイ『秋葉ばら』の中で、「あきばはら」ではなく「あきはばら」となったことを皮肉っていますし、神田末広町生まれの笹川臨風は『明治還魂紙』の中で、「秋葉つ原は、今ではアキハバラと変な田舎流の訓み方をしてゐる」と小学生時代に思ったことを記しています。
このように、「アキハバラ」という名前は、地元住民にはあまり歓迎されていなかったようです。
こうしたことに配慮したのでしょう、日本鉄道は計画通りの地平鉄道を建設する代わりに、なんと10ヶ所もの踏切を設けています。
神田青物市場の誕生
じつは、この貨物路線建設には鉄道輸送と神田川の舟運を連結させるねらいがありました。
そのため、明治26年(1893)には秋葉原駅東に神田川からの運河と船溜りを建設しています。
また、舟運の利便性を向上させるため、浜町川を神田川まで延伸して、当時の河川交通の大動脈だった日本橋川とも接続させたのです。(『千代田区史』)
こうして秋葉原は鉄道貨物と舟運貨物の一大集積地へと変貌し大いに発展を遂げることになりました。
こうして鉄道貨物輸送と接続したことで、慶長17年(1612年)に徳川幕府によって神田多町に設けられたという由来を持つ青物市場は未曾有の発展を遂げて膨張し、神田須田町一帯にまで広がっていきます。
これが大正12年(1923)関東大震災で焼失したために、昭和3年(1928)東京市が復興計画の一環として秋葉原駅西北端に巨大な近代的市場を建設して移転しました。
そして昭和10年(1935)からは中央卸売市場と名を変えて、文字通り築地市場とともに東京の台所として市民生活を支える存在となり、その名が広く知られるようになったのです。
秋葉原駅十字形立体交差の完成
さらに、復興にあたっては昭和3年(1928)に上野-神田間の市街地高架線が建設されて山手線がついに環状線となりました。
これに加えて、昭和7年(1932)には総武線が両国駅から御茶ノ水駅延伸されて、秋葉原の最上階に高架駅を建設したために、十字形の立体高架駅が誕生したのです。
こうして秋葉原駅には山手線と総武線という主要幹線の乗換駅としての顔が付け加えられることになりました。
一方で、旧日光街道(現在の昭和通り)を走る都電、高架線の山手線、さらに上を走る総武線と、三段構造となった秋葉原駅の光景は、帝都東京を代表する都市的景観として観光名所にまでなったのです。
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ここまで秋葉原の誕生を見てきました。
しかし、「オタクの聖地」「サブカルのメッカ」と言われる現在の秋葉原とはかなり様子が違っています。
次回は、秋葉原が現在の姿になった過程を追っていきたいと思います。
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