飯田の町と堀家の歴史【維新の殿様・信濃国飯田藩(長野県)堀家②】

前回はバカ殿伝説が残る信濃飯田藩堀家第十一代当主・堀親義についてみましたが、その中で飯田藩や堀家の歴史や地理的環境が問題となりました。

そこで今回は、飯田藩と堀家の歴史を見ていきたいと思います。

「飯田城址全景」(『伊那史叢説』市村咸人(山村書院、1937)国立国会図書館デジタルコレクション) )の画像。
【「飯田城址全景」『伊那史叢説』市村咸人(山村書院、1937)国立国会図書館デジタルコレクション) 】

飯田の歴史

飯田藩の置かれた飯田の町は、現在は信濃国南部・下伊那地方の中心的都市です。

しかし戦国時代には、飯田城の坂西氏、神之峰城の知久氏、吉岡城の下条氏など、土豪が割拠する状況で、飯田はその中の一つにすぎませんでした。

そして天文23年(1554)、この下伊那に武田信玄が侵入して支配下に置くと、重臣の秋山信友が郡代となり、当初は高遠城、のちに飯田城を居城としたのです。

ここに天文10年(1582)には織田信忠軍が伊那谷に侵攻、「飯田城ニ楯籠ケル伴西(阪西ナルヘシ)星名(保科ナルヘシ)ナト」を攻撃すると、守将の坂西織部は敗走し(『信長公記』『蕗原拾葉 第7輯』)、織田家の勢力下に入りました。

その後、信忠は飯田から上諏訪を経て甲府へ進撃すると、武田勝頼は天目山で自害し、武田氏が滅亡しまったのはみなさんもご存じのとおりです。

そして3月15日には織田信長が飯田に進軍、さらに高遠から諏訪へと進みました。(以上、『信長公記』)

「織田信長画像」(『愛知県史-第1巻』愛知県、1935-国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「織田信長画像」『愛知県史-第1巻』愛知県、1935-国立国会図書館デジタルコレクション】

こうして旧武田領国を支配下に入れた信長は、伊那郡に毛利秀頼を置きました。

しかし秀頼が飯田に入ってわずか1か月後の天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で信長が倒れると秀頼は飯田を離れて京に向かいます。

このスキをついて伊那に徳川家康が侵入し支配下に組み込むと、飯田城に菅沼定利を置きました。

天正18年(1590)に家康が関東に移封されると定利も関東へ移り、豊臣秀吉は再び毛利秀頼を伊那十万石に封じ飯田城主とします。

しかし秀頼が文禄2年(1593)に朝鮮出兵に伴い名護屋在陣中に病没、代わって娘婿の京極高知が領主となりました。

そして高知は、飯田の城下町を碁盤の目状に整備するなど、藩政の基礎を築き上げたのです。

飯田市街、昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webより、USA-R198-63 )の画像。
【昭和大火後の飯田市街、下中央の森が飯田城址、碁盤の目状の街区が残っています。(昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webより、USA-R198-63 )】

この高知も、関ヶ原で東軍についた功で慶長5年(1600)に丹後宮津に十二万三千石で転封、その翌年の慶長6年(1601)に下総古河から小笠原秀政が5万石で入部したものの慶長18年(1613)に松本へ移ると、しばらくは幕府領となりました。

そして元和3年(1617)に伊予大洲から脇坂安元が五万五千石で入封します。

安元は関ヶ原の合戦で父の脇坂安治とともに徳川軍に内応し、東軍勝利に貢献したことでご存じの方も多いかもしれません。

じつはこの安元は文武に優れた名君で、朝鮮使節の饗応役などを務め活躍しますが、承応2年(1653)に飯田城で病死しています。

脇坂安元(Wikipediaより20210122ダウンロード)の画像。
脇坂安元(Wikipediaより)

この後を養子の安政が継ぎますが、寛文12年(1672)に播州竜野へ国替えとなり、同年に下野烏山から堀親昌が二万石で入封します。

この後、幕末まで十二代、およそ二百年にわたって堀家が知行することとなりました。

目まぐるしく領主が変わった飯田ですが、注目すべきなのはその石高でしょう。

京極高知は伊那全域を所領とする十万石、その後はどんどん領国が縮小して堀家は2万石、下伊那郡の一部を所領とするまで小さくなっています。

こうして幕府の政策で、伊那谷は小藩や幕府領、尾張藩など他国の飛び地、さらには旗本領が入り混じる複雑でこま切れの支配構造になったのでした。

ここまでコロコロ変わる飯田の領主についてみてきましたが、最後に入封した堀氏はどのような歴史をたどってきたのでしょうか?

堀家の歴史

堀氏は藤原氏北家房前の子・魚名を祖とする一族で、利孝の時に美濃国厚見部茜部上・下を領し斎藤道三に仕えました。

利孝の孫・秀重ははじめ道三に仕えたあと織田信長、さらには豊臣秀吉に仕え一万石を領します。

そして、秀重の子・秀治は信長ついで秀吉に仕えると頭角を現して、天正13年(1585)には越前北庄十八万石の大名になりました。

堀秀政(Wikipediaより20210323ダウンロード)の画像。
【堀秀政(Wikipediaより)】

さらに秀治が小田原の陣中で没すると、子の秀政がこれを継ぎましたが、慶長3年には奥羽へ移封となった上杉家の旧領・越後春日山四十五万石の大大名となったのです。

この広大な領国は、秀政の次男・親良は越後国蔵王堂四万石に支封されました。

このときには、三男直寄を坂戸城、家老の堀直政を三条城に置き、領国各所に一族を配たうえに、本庄城に村上義明、新発田城に溝口秀勝を与力大名として置いて統治体制を作り上げました。

それから間もない慶長5年(1600)8月からは、関ヶ原合戦の前哨戦ともいわれる上杉遺民一揆が越後の各地で起こりましたが、これを完全に撲滅させています。

その後、慶長11年(1606)に秀政が若干31歳で没すると、その子忠利が家督を継ぎました。

忠利は徳川秀忠の養女・百合姫を正室に迎えて絶頂を迎えますが、慶應13年(1609)に家老の直政が死去したタイミングで大御所徳川家康による外様つぶしの標的にされてしまい、堀宗家はお取り潰しのうえ断絶させられてしまいます。

徳川家康画像(Wikipediaより2020.8.26ダウンロード)の画像。
【徳川家康画像(Wikipediaより)】

宗家が断絶しましたが、支封の親良が領する四万石蔵王堂藩と三男直寄が領する二万石坂戸藩は残り、蔵王堂藩が宗家となったのでした。

堀親良(ほり ちかよし・1580~1637)

堀家の初代・親良は、天正8年(1580)に安土で生まれました。

天正18年(1590)に小田原の陣で父・秀政に従って兄・秀治とともに初陣するも父が陣中で病没、遺領の越前で二万石を分与されます。

そして兄・秀治が越後春日山四十五万石に移封されると、蔵王堂四万石に支封されたのは前にみたところです。

堀宗家取り潰しの危機には、兄秀治の次男・鶴千代を養継嗣として隠居するものの、本多正純のとりなしで復帰、二代将軍秀忠の近侍となり廩米一万二千石を与えられました。

慶長16年(1611)には下野国真岡一万二千石に入封、慶長19年(1614)の大坂冬の陣には土井利勝のもとで活躍、翌年の元和元年(1615)の夏の陣では、佐久間安政・脇坂安元らと参戦します。

その後、元治2年(1616)の日光山廟造営にも参画、その後の数度の普請にも加わったうえに将軍秀忠の上洛に供奉するなど、役目に励みました。

その結果、元治4年(1618)には五千石、寛永4年(1627)には八千石の加増を受けて、下野国烏山二万五千石へ転封となったのです。

堀親昌(Wikipediaより20210323ダウンロード)の画像。
【堀親昌(Wikipediaより)】

堀親昌(ほり ちかまさ・1606~1673)

慶長11年(1606)伏見で生まれた親昌は、父・親良の死去に伴い寛永14年に家督を相続、その際に父の遺言で弟・親智に三千石、同じく親泰に二千石を分与して二万石を領しました。

寛文12年(1672)には信濃国飯田二万石に転封、ここに堀家飯田藩が誕生したのです。

ここまで堀家が飯田に入るまでの歴史を見てきました。

じつは、信濃国には山国特有の事情があるうえに、飯田のある下伊那にも独自の問題が大きく横たわっているのです。

そこで次回は少し視点を変えて、飯田とはどういうところなのかを見ていきましょう。

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