≪最寄駅:地下鉄南北線・都営三田線 白金高輪駅≫
飯田藩堀家は、安政2年以降、浅草・向柳原に3,000坪の上屋敷、麻布・新堀端に4,900坪の下屋敷を拝領しており、下屋敷に付随して54坪の抱屋敷をもっていました。
そこで今回は、飯田藩麻生新堀端下屋敷の跡地を訪ねてみましょう。(グーグルマップは跡地の一角にある古川児童公園を指しています。)
飯田藩麻生新堀端下屋敷跡地へ
地下鉄南北線・都営三田線の白金高輪駅、4番出口から出発です。
麻布通りを北上して麻布方面に進み、300mほど行くと首都高速2号目黒線の高架と、その下を流れる川が見えてきました。
この川を渡ると、そこからはもう飯田藩麻生新堀端下屋敷の跡地に入ります。
古川橋交差点を左に曲がって明治通りを古川に沿って進むとすぐに古川橋児童遊園、ここで休憩がてら飯田藩麻生新堀端下屋敷の歴史をたどってみましょう。
飯田藩麻生新堀端下屋敷とは
飯田藩の下屋敷についてみてみると、元禄頃は「三田の台」にありましたが、万治元年から幕末まで麻布新堀端の4,900坪で変わっていません。(『江戸幕府大名家事典 上巻』)
これを江戸切絵図の「東都麻布繪圖」で見てみると、古川が屈曲する部分に「堀石見守」の記載があります。
「堀石見守」とは第十二藩主・堀親義のことで、ここが飯田藩麻生新堀端下屋敷です。
切絵図をみると、隣を上村駿河守こと大和高取藩上村家下屋敷、その向こうに山内遠江守こと土佐高知藩山内家上屋敷と大名屋敷が連なっています。
古川、新堀川と渋谷川
ちなみに、目の前の川には古川、新堀、新堀川、渋谷川、赤羽川など、さまざまな呼び名があるのをご存じでしょうか。
ちょっとややこしいので、少し整理しておきましょう。
もともとの名は古川で、渋谷川、赤羽川は流れる土地でつけられた異称です。
一方で古川は、河口部分から川船の通交を可能にすべく何度も河川の拡幅改修工事が繰り返された結果、古川を改修した部分を新堀あるいは新堀川と呼ぶようになったのです。(以上『角川地名大辞典 東京』)
明治維新後の飯田藩麻生新堀端下屋敷
さて、明治4年(1871)7月に廃藩置県が断行されて旧藩主・藩知事に上京が命じられるにあたって、その居所が新政府から下賜されることになりました。
この時、飯田藩知藩事の堀親広に与えられたのが飯田藩麻生新堀端下屋敷4,900坪だったのですが、すぐさま義広は下屋敷の替りに浅草向柳原上屋敷3,000坪を拝領したいと申し出ています。
そして、明治4年10月3日に願い出たとおり麻生新堀端賜邸上地となり、浅草・向柳原飯田藩旧邸宅と引き替て下賜されたのは、第5回「堀義広の活躍と飯田藩消滅」でみたところ。
じつは麻布新堀端を避けたのは、飯田藩堀家だけではありませんでした。
明治9年刊行の「明治東京全図」によると、先ほど見た飯田藩下屋敷は空き地、隣の上村駿河守下屋敷も空き地、その向こうに山内遠江守上屋敷は明治の元勲・松方正義の屋敷となっています。
一方で、明治5年に三つの大名屋敷と周辺の町屋を合わせて「麻布新堀町」が誕生しています。
しかし、内務省地理局が明治20年に発行した「東京実測図」を見てみると、下屋敷東端は新たに古川に橋を架けたことで町屋が出来ましたが、大半が畑や空き地なのです。
このあと、「東京市麻布区全図 明治二十九年一月調査」をみると、小区画に区切る道が作られたうえに地番も10~13番地に細分されていて、町屋が建ち始めたことが見て取れます。
注目すべきは10番地の一角に麻布獣医学校と東京家畜病院の名があることですが、これについては、またのちほどに。
新堀町の発展
また、『角川地名大辞典 東京』によると、明治20年までは空き地でしたが、明治20年代以後に貸長屋などができ、やがて小工場や倉庫などが建ち並ぶ街に発展しています。
新堀町全体でも、明治5年には戸数8、人口39名(『府志料』)だったのが明治41年には世帯数391、人口1763(『市政調査』)にまで増加しました。
さらに、現在下屋敷の敷地内を走る明治通りと麻布通りには市電が走り、交通の要地にもなっています。
こうしたこともあって、先に見た麻布獣医学校と東京家畜病院のほか、東海商業高等も設置されています。
新堀町の戦後
こうして人々の生活の舞台となっていた新堀町ですが、昭和20年(1945)の東京・山手空襲で大半が焼失してしまいます。
そして、戦後は住宅やアパート、会社寮などが建ち並ぶ街となり、昭和41年には現行の南麻布2丁目となりました。
近年、麻布の街が人気となると再開発が進み、いまやオシャレな街・麻布の一角をなすようになっています。
飯田藩下屋敷西端の道路入口 飯田藩下屋敷西北端付近 飯田藩下屋敷北側の道
飯田藩麻生新堀端下屋敷跡地を訪ねて
それでは散歩の再開です。
古川をさかのぼって明治通りを100mほど歩くと、西福寺や圓澤寺など切絵図にもあったお寺が見えてきました。
その手前にある細道から町に入りましょう。
50mほど進むと丁字路に行き当たりますが、この道こそが堀家下屋敷の北西端を区切る道なのです。
この辺りには細い道をはさんで住宅や工房、会社事務所が建ち並んでおり、かつてのこの町の姿を彷彿とさせてくれて、歩いて楽しいところです。
さらに道なりに左に曲がって進み、十字路を右に曲がって幅の広い道を進むと、左手には古川橋病院、そして右手には立派な門が見えてきました。
ここが東京インターナショナルスクール、いかにも現在の麻布らしい施設ですね。
このまま麻布通りまで直進すると、通り沿いを中心に麻布らしいオシャレな建物が増えてきているようです。
東京インターナショナルスクール 飯田藩下屋敷跡近くの廃工場 飯田藩下屋敷近くの廃工場・倉庫
今度は麻布通りを少し北に進んで二つ目の角を左に曲がりましょう。
じつは飯田藩堀家下屋敷は少し手前の細道付近まで、ここはすでに大和高取藩上村家下屋敷跡地なのですが、通り沿いには廃屋となった昭和初期や戦後復興期の廃工場がいくつか残っているのです。
日東山曹渓寺
来た道を月辺りまで直進して四つ角に出たら、右手の南方向に曲がり、さらに10mほど行くと、日東山曹渓寺に到着しました。
曹渓寺は元和9年(1623)、今井村に絶江紹堤が開山した臨済宗妙心寺派のお寺で、承応2年(1653)に現在地に移転していますので、飯田藩下屋敷が麻生新堀端に移った時からお隣です。
昔は絶江和尚にちなんで、寺のある高まりを絶江山と呼んでいたそうです。
これで古典落語好きの方ならピンときたかもしれません、ここは古典落語「黄金餅」の麻布絶江山木蓮寺のモデルとなったお寺です。(『港区史蹟散歩』)
下谷山崎町からここまで、遺体を入れた樽を負って歩くのかと考えると、ちょっとぞっとしました。
曹渓寺 曹渓寺門前に建つ「麻布獣医学園発祥ノ地」碑
ちなみに、曹渓寺は麻布大学の発祥の地でもあります。
麻布大学の前身である東京獣医講習所は、明治23年(1890)9月10日、東京市麻布区本村町204(日東山曹渓寺境内)に帝国大学農科大学助教授與倉東隆が開設しました。
その後、麻布獣医学校と改称、明治28年(1895)10月に、すでに與倉東隆がすでに開設していた東京家畜病院がある麻布区新堀町に校舎を新築移転しています。
その後、昭和20年(1945)5月には戦災で焼失したため神奈川県相模原市に移転、校名を麻布獣医科大学として開学、昭和55年麻布大学と改称して現在に至っています。
これで前に「東京市麻布区全図 明治二十九年一月調査」でみた麻布獣医学校と東京家畜病院のことがわかりました。
そして曹渓寺前の絶江児童遊園内に「東京都立光明養護学校 発祥の地」の碑があります。
説明板によると、昭和7年(1932)6月1日、わが国最初の肢体不自由児学級である東京市立光明小学校が麻布区本村町二百3番地に創設されました。
その後、昭和20年(1945)戦災により焼失、東京都立光明養護学校と改称して世田谷区松原に設置し現在に至っています。
曹渓寺を後にして、丁字路を右に曲がると古川病院が見えるので、ここを左に曲がって再び東京インターナショナルスクール前を通り、麻布通りに出ましょう。
麻布通りを南の白金台方面に400mほど進むと、出発地点の地下鉄南北線・都営三田線の白金高輪駅4番出口に到着です。
今回の散策は一時間弱、平坦地の多い快適なコースでした。
飯田藩麻生新堀端下屋敷に関連する遺構は確認できませんでしたが、やはり麻布というのは先進的な土地柄なのだと大いに感心したところです。
今回は飯田藩麻生新堀端下屋敷跡地を訪ねてみました。
次回は、堀子爵家が負債問題を乗り越えて生活を再建した小石川区高田豊川町の屋敷跡を訪ねましょう。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献:
「東都麻布繪圖」戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永4年(1851))
「堀氏家譜」『蕗原拾葉 第十三輯』上伊那郡郡教育会編(上伊那郡郡教育会、1938)
『東京府志料 二十四(第5巻)』東京都政史料館、1959
『角川地名大辞典 17東京』「角川地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)
『江戸幕府大名家事典 上巻』小川恭一編(原書房、1992)
『東京史跡ガイド③ 港区史蹟散歩』俵元昭(学生社、1992)
参考文献:
『帝都地形図 第4集』井口悦男編(国分寺 之潮、2005)
次回は堀氏子爵家高田豊川町屋敷跡を訪ねてみましょう
トコトコ鳥蔵ではみなさんのご意見・ご感想をお待ちしております。
コメントを残す