カラクリ伊賀七と二宮尊徳【維新の殿様・常陸国谷田部藩(下野国茂木藩)編②】

前回は、行き詰まりを見せ始めた谷田部藩をみてきました。

この事態に歴代藩主たちはどのようにして事態の打開を目指したのでしょうか。

今回は、文化興隆の一方で、苦境が続く藩政改革と農村復興への取り組みを見ていきたいと思います。

「道話の図」(『石門心学の研究』白石正邦(成美堂、大正9年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【心学の講話をしているところ「道話の図」『石門心学の研究』白石正邦(成美堂、大正9年)国立国会図書館デジタルコレクション】

七代・興徳(おきのり:1759~1837)

領内の農村が疲弊荒廃して藩財政が破綻の危機に瀕する中、天明8年(1788)12月に七代興徳が家督を継ぎました。

興徳はさっそく荒廃した領内と藩財政の改革に着手し、翌寛政元年(1789)には領内を視察します。

ここで興徳が打ち出したのが「教育」による藩政改革でした。

まず、農村には石門心学を奨励し、江戸から講師を招いて村々を回らせたのです。

これって実質的解決策ではなく、要は精神主義ですので、効果がどれほどあったのか、疑問を抱かざるを得ません。

そして寛政6年(1794)には茂木と谷田部の両方に藩校・弘道館を設置、こちらは大いに効果が表れて藩医の広瀬周伯・周度父子が教授を務めて優れた人材を輩出するとともに、領内は文化的最盛期を迎えることになりました。

飯塚伊賀八(Wikipediaより20210414ダウンロード)の画像。
【飯塚伊賀七(Wikipediaより)】

カラクリ伊賀七

そんな中、「カラクリ伊賀七」こと谷田部新町の名主・飯塚伊賀七が現れます。

伊賀七は、五角堂や多宝造鐘楼、時計堂などの建築物から自動人形までさまざまなからくり細工を作り上げて、全国にその名を轟かせたのです。

なかでも秀逸なのが、人力の「飛行機」。

試作機制作まで行ったのですが、文政5年(1822)藩に「飛行願」を提出したところ逆に禁止されてしまい、幻と化してしまいました。

モンゴルフィエ兄弟の熱気球による有人飛行が1783年、ジョージ・ケイリーの有人滑空実験が1849年、ドイツのリリエンタールによる有人グライダー飛行開始が1891年、ライト兄弟が世界で初めて動力飛行に成功したのが1903年ですから、そのすごさが分かるでしょう。

ただ、備前国岡山の表具師・浮田幸吉が天明5年(1785)に滑空飛行に成功したとして巷で話題となったことから、これに刺激を受けてのチャレンジだったのかもしれません。

「両国大火浅草橋 明治十四年一月二十六日大火」(『清親画帖』小林清親1878 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【明治に神田・両国で起こった大火の様子(「両国大火浅草橋 明治十四年一月二十六日大火」『清親画帖』小林清親1878 国立国会図書館デジタルコレクション)】

二宮尊徳登場

話しを谷田部藩の危機的状況に戻しまして。

興徳による藩政改革が成果を見せない中で、文化3年(1806)、文政元年(1818)、同12年(1829)、天保5年(1834)2月と立て続けに江戸藩邸が焼失したうえに、領内の人口減少は止まらず、文化4年(1807)と同5年(1808)には茂木領内で百姓一揆が発生して状況は悪化するばかりに。

そして天保5年(1834)には借金が13万1,197両余、借米2,638に達すると、ついに興徳は相模などで農村復興と財政再建に成功していた二宮尊徳に財政再建を依頼したのです。(『角川日本地名大辞典 茨城県』)

二宮尊徳像(『二宮尊徳先生』神奈川県教育会編(育英書院、1936)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【二宮尊徳像『二宮尊徳先生』神奈川県教育会編(育英書院、1936)国立国会図書館デジタルコレクション 】

農村の興廃

二宮尊徳の改革を知るためにも、谷田部藩内における農村の興廃状況をデータで確認しておきましょう。

対象はデータが得られた茂木領についてです。

まず農地は、元禄15年(1702)田方603町歩、畑方1,277町歩でした。

これが天保7年には荒地が807町歩とのうち全体の43.2%を占めるまでになっています。

人口は、享保8年(1723)13,133人だったのが、寛政8年(1796)7,309人、天保7年(1836)6,702人と、天明の飢饉もあいまって人口は約半分にまで激減してしまいました。

しかも働き盛りの年代は江戸へと流出した結果、労働弱者が残る結果となって、地域の生産力が数字以上に弱体化していることも忘れてはなりません。

その事実を反映して、元禄期には本知1万6千石のほかに高田新田・余州新田などの新田開発によって4千石の増収があって、収納米は1万5千俵を数えていたのが、文政期(1818~30)の収納米は7,659俵と半減したのです。(『角川日本地名大辞典 栃木県』)

確かに、この状況は絶望的といってよいでしょう。

天保飢饉の救小屋((『荒歳流民救恤図』の内、渡辺崋山筆)『日本赤十字社赤十字博物館報第十三号』日本赤十字社1935 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【天保飢饉の救小屋(『荒歳流民救恤図』の内、渡辺崋山筆)『日本赤十字社赤十字博物館報第十三号』日本赤十字社1935 国立国会図書館デジタルコレクション 】

二宮尊徳とは

ここで二宮尊徳について、おさらいしておきましょう。

二宮尊徳(1787~1856)は天明7年(1787)に相模国足柄上郡栢山、現在の神奈川県小田原市栢山で生まれました。

幼くして両親を亡くし、兄弟とも生き別れてしまいますが、人並外れた体力と厳しい労働を基礎として、領主の収奪を巧妙に避ける工夫を重ねることで、二宮家を再興しています。

文政元年(1818)には奉公先の小田原藩家老・服部家の財政再建に成功。

さらに小田原藩主の分家・旗本の宇津家領地である下野国桜町領の農村復興にわずか10年ほどで成功すると、その名声は一気に高まったのです。

尊徳の改革方法は、ち密な実地を調査してグランドプランを作り上げ、これに合わせて多岐にわたる具体的なプランを策定するもので、そのプラン全体を「(報徳)仕法」と呼びました。

尊徳は興徳からの依頼のよって、谷田部・茂木領仕法を約一年かけて策定、これを天保6年(1835)に谷田部藩に渡したのです。

すぐさま藩では、藩医・中村元順(勧農衛)を起用して仕法を実施させます。

ところがその矢先の天保8年(1837)には谷田部が凶作に見舞われてしまいますが、この時は二宮尊徳から大麦百五十一俵余を借り受けてしのぎました。

そんな中、二宮尊徳に藩政改革を依頼した興徳が道半ばで天保8年12月にが死去してしまいます。

はたして尊徳の改革はどうなってしまうのでしょうか?

次回は尊徳仕法のゆくえを追ってみましょう。

茂木(昭和42年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、KT6710y-C3-7〔部分〕)の画像。
【細川家領茂木(昭和42年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、KT6710y-C3-7〔部分〕)】

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