仁正寺藩と西大路藩
「文久2年(1862)、仁正寺藩が西大路藩に藩名を変更」という事実に、滋賀県の歴史をおさらいしていた私は考え込んでいました。
「仁正寺」がなぜ「西大路」?
その理由を考えあぐねていた私は、思い切って先輩に聞いてみることにしたのです。
「ああ、それな!」とその先輩はうれしそうに答えた後に、こう言いました、「「にしおおじ」って10回早口で言ってみ」
とまいどいながらもさっそくトライ、「にしおおじ、にしおおじ、にしおおじ・・・・にしょうじ、にしょうじ?」
「そう、「仁正寺」は「にしょうじ」と読むねん!」
これはもちろん冗談でしたが、実際に音感が似ているのがその理由のようです。
そういえば、幕末明治になって名前を変える藩は、谷田部⇒茂木藩、肥後新田藩⇒高瀬藩のように藩庁が移動したことによるもの、(庄内)松山藩⇒松嶺藩のように同名藩と名称の重複を避けるなどの合理的なものだけでなく、名前をかっこ良くするようなものもあったように思います。
そこで今回は、藩名をかっこよく変えた?仁正寺(西大路)藩市橋家についてみていくことにしましょう。
なお、藩の名称は、近代に文献が「仁正寺藩」と「西大路藩」が同じくらい使われているものの、江戸時代の大半を「仁正寺藩」としてきたことからこちらを主とし、変更以降は併記する形を取ることにします。
市橋家とは?
仁正寺(西大路)藩は、その成立から消滅まで、すべての期間を市橋家が藩主を務めた譜代格の外様小藩です。
そこでまずは、藩主となった市橋家の歴史から見ていきましょう。
市橋家の先祖は、清和源氏と藤原氏の二説があるのですが、鎌倉時代から美濃国池田郡市橋郷(岐阜県揖斐郡池田町市橋)に居住していたとみられます。
室町時代に入ると、美濃守護土岐氏に仕えていましたが、専順(利尚)の子長利(ながよし)は織田信長に仕えて美濃国福塚(福束)城主に取り立てられたのです。(『国史大辞典』『全大名家事典』)
「蓋し長利に至りて家名起りしなり」(『蒲生郡志』4)というように、長利以前は不詳とみるのが自然なのかもしれません。
市橋長勝(ながかつ・1557~1620)
市橋家初代・長勝は、弘治3年(1557)に長利の嫡男として福束城で生まれています。
はじめは長利とともに信長に仕えていましたが、のちに豊臣秀吉に仕え、天正15年(1587)美濃国今尾城一万石を与えられるとともに従五位下下総守に叙されて諸侯の列に加わりました。
それからも秀吉の忠実な部下として、天正18年(1590)の小田原の陣や朝鮮出兵などで活躍、秀吉が没すると慶長5年(1600)には陸奥国会津若松城主・上杉景勝討伐に参加して下野国・小山に出陣、そこから徳川家康に従って関ヶ原合戦では東軍として参戦しています。
市橋家の「関ヶ原」
このため、居城の今尾城が西軍から攻撃される事態となりますが、守備する家臣たちの奮闘でこれを撃退、逆に西軍の一員だった丸毛兼利の福束城を攻略、さらには西軍・福原長尭が守る大垣城も開城させるという大きな戦功をあげます。(『江戸時代幕藩全大名家事典』)
戦後、その功により一万石の加増を受けて、慶長15年(1610)には伯耆国久米郡矢橋に矢橋(八橋)藩2万1,300石を立藩しました。(『寛政重修諸家譜』『蒲生郡志』4)
さらに、長勝は大阪の陣でも戦功をあげて、元和2年(1616)には死去した家康の遺命により2万石の加増、越後国三条に移封されて三条藩4万1,300を立藩したのです。
市橋長勝死去と仁正寺藩の誕生
長勝は越後に入ると幕命により新城普請にとりかかわるかたわら、城下町の整備に努めますが、入封4年目の元和6年(1620)に64歳で没してしまいました。(『寛政重修諸家譜』『蒲生郡志』4)
長勝には嗣子がありませんでしたので所領は幕府に収公されますが、家名断絶を惜しまれて縁者の長政に家督を継がせ近江国蒲生郡・野洲郡など二万石を与えたのです。(『国史大辞典』『全大名家事典』)
これは幕府が長勝の活躍を認めたことによる、かなり特別な措置といってよいでしょう。
こうして近江国仁正寺藩が誕生したのですが、この仁正寺とはどういう場所なのでしょうか?
仁正寺はどんな場所?
仁正寺は「日精進」「二勝地」とも書かれますが、その名の由来には諸説があってはっきりしません。
この仁正寺、近江平野と鈴鹿山脈の接点にあたるとともに、ここらか丘陵地を横切って甲賀へと抜ける間道である仁正寺越えの起点でもありました。(以上『地名大辞典』)
じつはこの仁正寺、戦国時代の終わりはすごいところだったのです。
次回は仁正寺最初の黄金時代、蒲生氏郷の時代をみてみましょう。
コメントを残す