《最寄駅: JR山手線・鶯谷駅、東京メトロ千代田線根津駅》
子爵市橋虎雄の実に起こった悲劇は、第6回「子爵市橋虎雄の悲劇」で見たところです。
そのあまりにも悲惨な生涯の中で、唯一小春日和を思わせるのが上野桜木町で過ごしたおよそ15年の日々でした。
そこで今回は、この上野桜木町の屋敷の跡地と、ほど近い場所にある本郷片町の屋敷跡地を訪ねてみましょう。
それでは、JR山手線・鶯谷駅北口から出発しましょう。
駅前の通りを北に向かってすぐに、言問通り寛永寺陸橋が見えてきました。
この陸橋は、JR山手線や京浜東北線、常磐線などの線路を越えながら上野台地の高低差を登る急坂、階段を上るのがつらい方は、北側のあるエレベーターで台地上にあがってください。
言問通りを西に進むと、左手に寛永寺根本中堂、右手に谷中霊園が見えてきました。
さらに200mほど西へ進んだ次の信号を右に曲がって100mほど進んだ場所が、かつての下谷区上野桜木町38、現在の台東区上野桜木2丁目です。
『東京市及接続郡部地籍台帳』によると、小さな通りを挟んで上野桜木町38番地は1~4に分かれているのですが、そのいずれかに虎雄が住んでいました。
当時は敷地が30坪前後、現在も個人住宅が軒を連ねる閑静な住宅街となっています。
奥の谷中保育園から 交差点部分、南から 南端部分
現在は谷中巡りの観光客が四つ角をひっきりなしに通っていますが、この四つ角を北に行った行き止まりとなる手前、銀杏の古木に囲まれて奥まった場所に台東区立谷中保育園のあたりは、かつてのこの町の雰囲気を感じさせてくれます。
この四つ角を西に向かうと、80mほどで角に谷中交番とスカイザバスハウスのある都道神田白山線との交差点に出てきました。
これを南に曲がって進むと、愛玉子、さらにカヤバ珈琲と谷中巡りの人気スポットが続く、休日を中心に多くの観光客でにぎわうエリアとなります。
愛玉子 カヤバ珈琲 旧吉田屋酒店
下町風俗資料館付属展示場になっている旧吉田屋酒店をみながら言問通りを西の根津方向に曲がって、再び進みましょう。
少し先に見えてきた下り坂は善光寺坂、その名はかつてこの坂の上北側に建立された善光寺にちなんでいます。
この善光寺、慶長6年(1601)信濃善光寺の宿院として建立されたもので、門前町もできるほど賑わったそうです。
しかし、お寺は元禄16年(1703)の大火で焼失して現在の港区北青山3丁目に移転、その後は善光寺門前町の名称のみが明治5年まで坂の南側に残っていました。
善光寺坂下にある老舗せんべい屋の大黒屋角を北に曲がって、通りを100mほど進みましょう。
せんべいの老舗・大黒屋 大黒屋から市橋家屋敷跡に向かう道、かつての藍染川
すると、小さな四つ角が現れますが、この南角部分がかつての東京市本郷区根岸片町24番地、現在の文京区根津2丁目23番地です。
四つ角を北東に進むと三浦坂に至りますが、この坂が美作国勝山藩三浦家下屋敷前の坂道だったので、三浦坂と呼ばれるようになった古い坂。
ここまで歩いてきた道も、かつての藍染川跡に沿う道で、本郷区と下谷区の境界、現在も文京区と台東区の境界線となっている古くからの幹線路です。
この四つ角も江戸時代からある古いもので、微妙な歪みにも歴史を感じずにはおれません。
『東京市及接続郡部地籍台帳』によると、角にあったのは染め物工場で、虎雄一家が住んだのは、その横にあった40坪ほどの借家だったと思われます。
現在も生活道路なうえに谷中巡りの観光客が加わって、人の往来の絶えない場所なのに驚きました。
交差点を北西から 北東から
四つ角を南西方向に曲がって、二つ目の四つ角を今度は南東方向に曲がって50mほど進むと、根津二丁目児童公園がありますので、ここで休憩しながらちょっとおさらいしてみましょう。
まずは虎雄を襲った悲劇から。
市橋子爵家は当主・長壽の死去に伴い、弱冠3歳の虎雄(明治25年(1892)4月1日生)が明治28年(1895)6月家督を継承、襲爵しました。
その後、母・仲子の実家である東京府浅草区栄久町28番地、現在の台東区蔵前4丁目の旧上山藩松平子爵家の屋敷に逃げ込んでここで幼少期を過ごします。
その後、実家のトラブルで虎雄と仲子親子も栄久町の家を離れざる得なくなり、住所を転々とした末に、貧困からついにはひっそりと姿を消してしまうのです。(第6回「子爵市橋虎雄の悲劇」参照)
この途中、浅草栄久町から移ったのが東京市本郷区根岸片町24番地、現在の文京区根津2丁目23番地付近の家でした。
ここは染め物工場横にある40坪ほどの借家で人の往来も多く、華族が住むのにふさわしいとはいいがたい環境だったのでしょう。
あくまでも、この根岸片町の家は緊急避難的意味合いだったのだと思います。
この家に5年ほど住んだのち、大正2年(1913)までに移り住んだのが先ほど見た下谷区上野桜木町38番地、現在の台東区上野桜木2丁目の家だったのです。
そしてこの地で昭和2年(1927)頃までのおよそ14年間を過ごしています。
先ほど見たように、敷地は広くはありませんが、静かで落ち着いた環境でした。
おそらく虎雄は、母・仲子と弟の鉄之助(明治28年(1895)3月生)の三人で行く末を相談したことでしょう。
ようやく成人になった鉄之助を分家して子爵の籍から外しているところをみると(『人事興信録 第11版改訂版 上』)、将来に明るい展望が持てなかったのかもしれません。
せめて鉄之助だけでも、華族の名が邪魔して不自由な生活を送ることがないように、との考えがあったのではないでしょうか。
このころには虎雄もすでに30代になっていますが、これまでに子爵にふさわしい教育を受けたとは思われません。
母・仲子の実家の醜聞もあり、市橋子爵家の困窮も漏れ聞こえるようになると、結婚はもちろん、華族間の付き合いもままならない状況に陥ってしまったことでしょう。
平民として生きる道も、華族という肩書があることを考えると、それにふさわしい教育を受けていない虎雄には難しいことは言うまでもありません。
あるいは、爵位返上すらできない状況にまで追い込まれてしまったのではないでしょうか。
その後も子爵市橋虎雄は、母とともに本郷区駒込林町1、現在の文京区千駄木5丁目(『人事興信録 第8版(昭和3年)』)、本郷区駒込神明町21、現在の文京区本駒込4丁目19付近(『人事興信録 第9版(昭和6年)』)と点々と住まいを変えています。
駒込林町の家は団子坂を上ったところにあって、借家が多い町として知られていました。
旧駒込林町の屋敷跡 旧駒込神明町の屋敷跡
さらに駒込神明町の家は稲荷坂の上で、坂下には三業の地・「神明花街」が繁栄を謳歌する中、その裏手に当たる場所でした。
今でこそ閑静な住宅地となっていますが、当時は花街外れの場末感漂う住まい、ここに市橋虎雄もいよいよ困窮が極まった印象を受けずにはおれません。
そして、昭和9年(1934)頃には田園風景のひろがる「東京市杉並区堀ノ内町2ノ606」、現在の杉並区堀ノ内1丁目東部に移り(『人事興信録 第10版(昭和9年)上巻』)、そのままひっそりと虎雄は年老いた母とともに姿を消しました。
あらためて見てみると、上野桜木町の生活で、ある意味虎雄は覚悟を決めたのかもしれません。
その決意とは、自分を縛るしがらみとなった爵位を捨てることではなく、祖先から受け継いだ勲功と歴史そのものといえる爵位との心中だったのかもしれません。
それでは帰路につきましょう。
根津二丁目児童公園から二本西の不忍通りまで出て、根津一丁目交差点まで行くと、東京メトロ千代田線根津駅1番出口が目の前です。
今回は寛永寺陸橋のほかは下り坂の多いコース、およそ1.2㎞で所要時間は約1時間30分、子爵市橋虎雄に思いをはせる散策でした。
根津神社 不忍池
ゴールの根津駅からは根津神社や不忍池、森鴎外旧居といった名所も近く、別稿で取り上げる予定の下野国喜連川藩足利家の江戸屋敷もありますので、余裕のある方はぜひ足を運んでみてください。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市区調査会、1912
『近江蒲生郡志 巻四』滋賀県蒲生郡編(蒲生郡、1922)
『人事興信録 第8版(昭和3年)』人事興信所編(人事興信所、1928))、
『人事興信録 第9版(昭和6年)』人事興信所編(人事興信所、1931)、
『人事興信録 第10版(昭和9年)上巻』人事興信所編(人事興信所、1934)、
『人事興信録 第11版改訂版 上』人事興信所編(人事興信所、1939)
台東区と文京区設置の現地案内板
参考文献:
『東京の坂道 -生きている江戸の歴史-』石川悌二(新人物往来社、1971)
『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)
『江戸・東京 歴史の散歩道1 中央区・台東区・墨田区・江東区』街と暮らし社編(町と暮らし社、1999)
『江戸・東京 歴史の散歩道2 千代田区・新宿区・文京区』街と暮らし社編(町と暮らし社、2000)
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