前回見たように、なんとか明治維新を乗り越えた足利家ですが、その運命は、まだ幼い於菟丸に託されることになりました。
今回は、この於菟丸の時代を見ていきましょう。
なお、足利於菟丸と足利子爵家については、子供たちの手記があるおかげで、その暮らしぶりや於菟丸の人物像までかいま見ることができますので、2回にわたってお届けします。
足利於菟丸(おとまる:1869~1943)
記録が少なく、なぞの多い足利於菟丸ですが、まずは史料からその人生を見てみます。
於菟丸は、明治2年(1869)11月23日、喜連川藩十一代藩主縄氏の長男として生まれました。
ところがこれは、縄氏が隠居して養嗣子聡氏に家督を譲った後でしたので、聡氏が於菟丸を養嗣子としたのち、明治9年(1876)9月3日に聡氏が隠居して家督を於菟丸に譲っています。
その後、聡氏が足利子爵家から離籍したのは、前回見たところです。
於菟丸が家督を継いだ時は、まだわずか8歳、実父・縄氏の実家である水戸徳川家が後見することになったようで、下谷区池之端の屋敷を処分して、東京本所区新小梅町一番地の水戸徳川侯爵家小梅邸宅で暮らしました。
水戸徳川家邸宅に近い寺島村百三十番地に住いしたとする資料もありますが(『改正華族銘鑑』長谷川竹葉編1878)、一時的なものだったのでしょう。
於菟丸は水戸徳川家の邸宅で、水戸藩藩主の子弟が受ける独自の教育を受けていたのかもしれません。
そしてこのころ、本荘宗武(宮津松平子爵家)二女の榮と結婚していますが、彼女は明治28年(1895)9月に18歳で亡くなってしまいました。(『平成新修旧華族家系大成』)
千駄木林町時代
そして於菟麿は明治33年(1900)までに水戸徳川家邸宅を出て、東京市本郷区駒込千駄木林町21番地に屋敷を構えました。(『最新華族名鑑』秀英舎編1900)
おそらく生活に不自由のないように水戸徳川侯爵家から配慮があったのでしょう、21,705円もの所得を得ています。
そしてこのころ、日野澤依長女・ヒロと再婚しますが(『平成新修旧華族家系大成』)、この屋敷内には姉の順子と弟亀三郎が同居していたようです。
この於菟丸の再婚相手となった女性ですが、『人事興信録 2版』では「簡(ひろ)子 明治14年(1881)9月生 大阪府平民大谷尊寶姉」となっています。
惇氏は母方について、真宗大谷家の家系で、母方の祖母が真宗大阪別院で暮らしていたと記しています。(「わが細く遥かなる道」)
その後、於菟丸とヒロの間には、明治34年(1901)5月には長男・惇麿、翌明治35年(1902)10月に長女・彰子など、四男四女に恵まれました。
足利於菟麿は明治17年(1884)に華族制が始まると子爵に叙せられたのち、昭和10年(1935)9月28日に長男・惇氏に家督を譲って隠居、昭和18年(1943)5月24日に没しています。(『旧華族家系大成』)
しかし、この於菟麿については、数多くの謎があるのです。
これを、『足利惇氏著作集 第三巻 随想 思い出の記』所載の足利惇氏やその兄弟の懐述から、足利於菟丸の人物像に迫ってみたいと思います。
不思議な名前
まず気になるのは、その風変わりな名前です。
「わが家では代々「何氏」というふうに「氏(うじ)」をつけるのが慣例で、それも長男の場合のことで、二男以下は逆に「氏(うじ)」を頭に持ってくるのが原則である。」(「私本と私」)のですが、「祖父までは代々名前に氏の字を踏襲しているが、父は幼名のまま通した。」(「尊氏とわが家」)
たしかに、喜連川(足利)家の名と幼名の関係を見てみると、四代昭氏と六代茂氏が梅千代、八代恵氏と十代煕氏が金王丸、祖父の十一代余一麿が縄氏などと、惇氏の言うルールに当てはまる当主が多いのは事実。
ですので、於菟丸は命名時、幼名のつもりだった可能性は十分に考えられるところです。
江戸時代までは、幼名を元服時に改名する習慣は、公家や武家で一般的だったのはみなさんもご存じでしょう。
しかしこれが、明治政府によって戸籍が作られると、幼名を元服時に改名する習慣は急速に廃れて、名前は一生ものという時代に代わっているのです。
ですから、於菟丸が何かに主義主張で大人になっても名を改めなかったというよりは、時代に合わせて同じ名を名乗り続けた、ということなのでしょう。
引っ越し好き
於菟麿が生まれたのは、おそらく池ノ端七軒町19番地の江戸時代以来の足利(喜連川)家邸宅でした。
その後、幼少期を本所区新小梅町1番地の水戸徳川侯爵家邸内で過ごした後、於菟丸が日野澤依長女・ヒロと再婚して明治33年(1900)までに水戸徳川家邸宅を出て独立、東京市本郷区駒込千駄木林町21番地に屋敷を構えたのは前にみたところです。
「その家は父と母が結婚して初めて持った家であったが、(中略)何でも小間ばかりの使いにくい家と云うので三五、六年ごろ、当時の小石川区久堅町に引っ越した」(「わが幼年時代」)というように、長男の惇氏が生まれてすぐに引っ越しています。
ちなみに、千駄木林町の屋敷は売りに出したわけですが、「この家の買主は小説家の中條百合子(宮本百合子)のお父さんで、その下見に手を引かれてきた小さなお嬢さんが百合子さんであった」(同上)
この場所には現在、宮本百合子旧居跡として碑が建っています。
子爵足利於菟麿邸焼失
ふしぎなことに、於菟丸の子供たちは、東京市小石川区上富坂町30番地の屋敷を、理由はわかりませんが「久堅町の家」と呼んで懐かしんでいます。
さて、惇氏によると、「久堅町の家」は平屋の一般的な住宅だったようですが、書生や女中がいる豊かな暮らしぶりでした。
『人事興信録 2版』に「東京市小石川区上富坂町30番地」とあるこの家は、確かに電話をひくほどの経済的余裕があるのがわかります。
この家で前に見たように、長女彰子、二男尚麿、二女恆子が生まれて、足利家もにぎやかになってきました。
ところが、明治39年(1906)3月、この家は書生が放火して全焼してしまうのです。(第12回「足利子爵家上豊坂屋敷を歩く」参照)
足利子爵家お引越し
足利子爵家は、火事のあとに東京を離れて、京都府愛宕郡下鴨村森本町24番地に移っています。(『最新華族名鑑 明治41年12月調』森惣之祐編1909)
京都に移ったのは、於菟麿の妻ヒロの出身地だったからですが、その後まもなく『華族名簿 大正5年3月31日調』によると「牛込区築土八幡町25」、さらに翌年の『華族名簿 大正6年3月31日調』の「麹町区三番町78」と立て続けに引っ越しています。
「四谷時代の学習院」『学習院史 開校五十周年記念』学習院編(学習院、1928)国立国会図書館デジタルコレクション 麹町時代の学習院
おそらく築土八幡の家は、惇氏と尚麿が当時四谷にあった学習院に徒歩で通うため、三番町は学習院が麹町に移転したことや、大正3年(1914)惇麿が東京府立第一中学校、のちの日比谷中学に進学したためなのでしょう。
さらに引っ越し
この後さらに於菟麿は目まぐるしく住所を代えているので、ちょっと追いかけてみましょう。
『華族名簿 大正13年5月31日調』と『華族名簿 大正14年5月31日調』では「小石川区雑司ヶ谷町65」、
『華族名簿 大正15年4月30日調』と『華族名簿 昭和2年4月30日調』では「本郷区駒込林町219」、
『華族名簿 昭和3年5月31日調』と『華族名簿 昭和4年5月31日調』では「牛込区若松町142」、となっていますが、これらは一時しのぎなのかもしれません。
このうち、雑司ヶ谷の家は、関東大震災からの帝都復興事業で、不忍通りが建設されるのに伴って立ち退きとなったようです。
西大久保時代
『華族名簿 昭和5年5月31日調』から『華族名簿 昭和10年5月31日調』まで「市外西大久保51」のちの「淀橋区西大久保3丁目51」
だいたい二三年おきに引っ越しているのですが、西大久保の家にしばらく落ち着いて暮らしました。
いっぽうで『人事興信録 4版』には華族名簿よりも早い大正4年(1915)の段階で「東京市豊多摩郡大久保町字西大久保234」を住地としています。
子供たちの証言に出てくるのは、筑土町と三番町の二か所、そこから推測すると、雑司ヶ谷と駒込林町および若松町は於菟丸の仕事用、といったところでしょうか。
四男四女の大家族の暮らしぶりはにぎやかで思い出深いものだったようで、長女彰子と次男尚麿の懐述でも、この西大久保の家での暮らしが詳しく描かれていています。
ここまで見て分かるように、於菟丸は子供の進学に合わせて引っ越しているのですが、そこはいずれも学校から2キロメートル前後の距離があるギリギリの徒歩圏内。
「徒歩通学で鍛える」というようなポリシーが於菟丸にあったのかもしれません。
その後、昭和10年に家督を長男の惇氏に譲って隠居した折に、『華族名簿 昭和11年6月20日調』で「杉並区阿佐ヶ谷6丁目248」に引っ越したのを最後に、亡くなるまでこの地で過ごしています。
さて今回は、子爵足利於菟丸の四男四女に恵まれた人生を見てきました。
次回では、子爵足利家の暮らしをのぞきつつ、於菟丸の人となりを見ていきたいと思います。
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