足利子爵家の暮らしと子育て【維新の殿様・下野国喜連川藩(栃木県)足利(喜連川)家 ⑦】

前回、子爵足利於菟丸の人生をおおまかに見てきました。

そこで今回は、子爵足利家の暮らしをのぞきつつ、於菟丸の人物像に迫ってみたいと思います。

足利於菟丸(Wikipediaより20210519ダウンロード)の画像。
【足利於菟丸(Wikipediaより)】

於菟丸の趣味

幼年期から青年時代を水戸徳川侯爵邸で過ごした於菟丸は、そこで水戸徳川家特有の教育を受けたようで、実に多くの趣味を持っていました。

「父は若い時から宝生流の謡曲をやり、幸流の小鼓をたのしみ、夜おそくまでその会合が度々座敷で催された」(「わが幼年時代」)のをはじめ、狩猟やカメラを趣味としていますし(「道を語られた先生」大金眞人)、趣味ではないものの足利家当主として御家流の書道は欠かせなかったのは言うまでもありません。

さすがは名門足利家当主と感心する一方で、心配になってくるのがその懐事情です。

於菟麿の収入源

じつは、私が於菟麿について最も謎に思うのが収入源、ちょっと下世話ですが、ちょっとこの面からも見てみましょう。

『最新華族名鑑』(秀英舎編1900)と『最新華族名鑑』(秀英舎編1902)では、所得が21,705円とありますので、この頃はかなりの収入があったとみられます。

これは、『華族部類名鑑』(安田虎男1883)にみえる「禄券八千七百四十三円余、株券二十五株」というかつての喜連川藩に由来するものはもちろん、父方で長く居候していた水戸徳川侯爵家から、それなりの支援を得た可能性を感じさせます。

上富坂(子供たちのいう久堅町)時代には、惇氏と彰子を連れて、中華料理などを食べに行っていますし、まだ幼かった惇氏を連れて新橋の花街に通ったのも事実。

あるいは、前にみた東京市本郷区駒込千駄木林町21番地の屋敷が持ち家だったのも、その査証とみてよいのかもしれません。

しかし、その家も宮本百合子の父に売ったのも前回にみました。

足利子爵家の家計

ここまでみてきたように、繰り返す引っ越しや火災、さらには盗難にまであったうえに、8人もの子沢山ときては、家計が悪化するのは事前の成り行きといってよいでしょう。

あるいは四男峻を、生まれてすぐに里子に出したのも財政の悪化が関係しているのかもしれません。(「兄の想い出」足利峻)

西大久保時代を指して、「中学は、今日の日比谷高校の前身である東京府立第一中学校であったが、当時は、わが家の財政的にもっとも困窮の時代で」(「わが細く遥かなる道」)とあるものまさにこの時期ですし、足利家伝来の文書を売り払ったのも、この時期ではないでしょうか。

ちなみに、この足利家伝来の文書の多くは、足利惇氏が450万円で買い戻して喜連川町に寄付、「喜連川文書」と名付けられた文書は、学術上、極めて重要なものとされています。(「喜連川文書について」高塩武一)

喜連川文書 第一巻(写本)(国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【喜連川文書 第一巻(写本)(国立国会図書館デジタルコレクション )国立国会図書館には喜連川文書写本全七巻が収蔵・公開されています。】

やはりこの時期には、足利子爵家の家計がかなりのピンチにあったとみてよいでしょう。

足利於菟丸の謎

足利於菟丸が財政的に困窮したことはここまで見た通りなのですが、その一方で何らかの職業に就いた記録はわずかです。

『華族名簿 昭和12年6月1日調』から見える「早稲田工手学校講師」とあるのがそれで、この職業的肩書は、昭和18年(1943)の死去まで続いています。

いずれにせよ、『華族名簿 大正13年5月31日調』以降は「礼遇不享」を通すなど、華族特有の華やかな交際を避けたことが破綻に至らなかった要因かもしれません。

大隈重信(国立国会図書館 近代日本人の肖像より)の画像。
【大隈重信(国立国会図書館 近代日本人の肖像より)】

早稲田工手学校

ここで早稲田工手学校と足利於菟丸との関係を見ておかなくてはなりません。

早稲田大学を設立した大隈重信は、産業革命期に入りつつあった日本には多くの技術者が必要になると考え、理工学部を設置します。

さらに大学出身の技術者をサポートする人材が必要と考えて、それらに人材を育成する工手学校設立を徳永重康に命じたのです。

こうして明治44年(1911)3月に早稲田大学附属早稲田工手学校が設立されました。

そして昭和11年(1936)5月に同学校の設立25周年記念式典が開催されて、永年勤続の講師たちが表彰されているのですが、その中に足利於菟丸の名があるのです。

勤続15年表彰の対象者23名のうちの一人となっているので、於菟丸がこの職についてのは大正10年(1921)のこととなります。

その後、昭和16年(1941)5月の設立30周年記念式典の勤続二十年表彰者の中に於菟丸の名が見えませんので、このころまでに退職したのでしょう。

ちなみに早稲田工手学校は、戦後早稲田大学工業高等学校となった後、幾たびかの改変を経て、2001年に早稲田大学芸術学校となり現在に至っています。(以上、早稲田大学HP早稲田大学百年史)

足利子爵家の暮らし

ここ目で見てきた結果、どうやら足利子爵家華族と聞いて想像するような、きらびやかな暮らしとは無縁だったことが分かってきました。

では、実際どのような暮らしをしていたのでしょうか?

ふたたび、於菟丸の子供たちの証言を聞いてみましょう。

「その頃は私の腕白ぶりも頂点であったらしく、近所に邸宅のあった入江さん(母の親戚で二男が私の同級生-後に侍従長)や得能さん(矢張り初等科仲間)などと毎日遊びまわった」(「惇兄のこと」遊上尚麿)

長女の森山彰子によると、「私共兄妹は年齢の近い大勢でワイワイガヤガヤと育ちました。」(「兄を偲ひて」森山彰子)

ほかにも、惇氏が猿の役になって木にのぼり、尚麿が子供用の空気銃で打つという猟師ごっこをしたり、彰子ら女の子を含めて兄弟で相撲を取ったりと、至って普通の仲良し兄弟の姿が描かれています。

また、おやつがお菓子やせんべい、豆類だったり、食事が一人に一つの高足付膳ということなので、おそらく一汁二菜くらいの和食だったりと、極めて普通。

ちなみに食事は男女別になって、父の於菟麿から年齢順に並んで食べていたというのも、この時代の一般的なありかたです。

教育方針

前回、引っ越しのところで見たように、子供たちの学校に合わせて引っ越しするほど教育熱心な於菟丸。

しかしその一方で、華族の義務として、男の子は学習院初等科に通うものの、惇氏が府立第一中学(のちの日比谷)に進学していることからも、中学からは学習院にこだわらなかったようです。

そのいっぽうで於菟丸は、前にみたように自身が早稲田工手学校という技術系の学校で教えていることもあり、惇氏が中学を卒業する際には工科を勧めていますし、のちに次男尚麿が実際に工学を専攻していることから考えると、子供たちには技術系の仕事についてほしいと望んでいたようです。

足利子爵家の華族付き合い

まえに足利子爵家が華やかな家族の交際を避けていたことを見たのを覚えて居られるでしょうか。

では、華族との付き合いがなかったのかというと、そうでもないようです。

惇氏が久堅町の家として懐かしむ「東京市小石川区上富坂町30番地」の家が放火で全焼した際には、於菟丸の伯父にあたる徳川慶喜がお見舞いに訪れました。

「七十代の公爵徳川慶喜」(『徳川慶喜公伝 一』渋沢栄一(竜門社、1918)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「七十代の公爵徳川慶喜」『徳川慶喜公伝 一』渋沢栄一(竜門社、1918)国立国会図書館デジタルコレクション 】

また、惇氏が中学卒業後に失踪した時も、於菟丸夫妻は親しかった水戸徳川侯爵や肥前平戸松浦子爵に相談しています。(「兄を偲ひて」森山彰子)

こうしてみると、於菟丸は華族らしく広く社交的に、というのではなく、親戚付き合いの延長線として近しい華族と交流を続けていたのではないでしょうか。

足利家の伝統と於菟丸

ここまで見てくると、足利子爵家の暮らしぶりは、一般人に近いものだと言えるでしょう。

しかし、やはり名門華族の重圧のようなものがあったようです。

「父は私の幼少時代によくわが家の系図を毛筆でいくども書かせ、ほとんどそらんじるくらいにさせたが、その中には歴史上の人物も出てきて、家に対する自覚というものが暗黙のうちに養われたようである。」(「尊氏とわが家」)

昭和9年(1934)中島久万吉が足利尊氏を再評価しただけで商工大臣を罷免される事件が起こるなど、皇国史観が国中を覆いつくし、足利家を悪者に仕立て上げる風潮の中で、子爵足利於菟丸は、世間から離れた位置を保ち続けました。

足利家正月行事

さらに興味深いのが、足利家には於菟丸の頃まで正月の伝統行事が行われていたというものです。

それは、元旦に旧家臣たちが新年のあいさつに参上した際に、家老格のものが片膝を立てて殿様に「殿、いかが計らいましょうや!」と旗揚げを呼びかけると、殿様が一呼吸おいて「うむ、やはり止めておこう」と答えるという行事(「足利惇氏先生に想う」岩崎昭夫)、足利家嫡流らしい行事と言えるでしょう。

しかし、心中にはやはり忸怩たる思いを抱えており、いずれは子供たちが家名をふたたび挙げてくれることを期待していたのかもしれません。

月桂寺の画像。
【足利於菟丸の墓がある足利家菩提寺・月桂寺(新宿区河田町)】

さて、ここまで於菟麿の人となりについてみてきました。

次回からは足利家の家名再興を託された惇氏についてみてみたいと思います。   

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