《最寄り駅:JR中央線 大久保駅、JR山手線 新大久保駅、都営大江戸線・東京メトロ副都心線東新宿駅》
明治時代はじめ、東京市下谷区池之端七軒町(現在の台東区池之端2丁目)に屋敷を構えた足利家ですが、於菟丸が家督を継いでからは、東京本所区新小梅町一番地の水戸徳川侯爵家小梅邸で幼少期を過ごした後、東京市本郷区駒込千駄木林町21番地を経て東京市小石川区上富坂町30番地に屋敷を構えました。
これを放火で失ってからは東京各所を転々とし、ようやく東京市豊多摩郡大久保町字西大久保234に落ち着いたのです。
今回はこの西大久保の屋敷跡を訪ねてみることにしましょう。
(グーグルマップは足利子爵家西大久保屋敷のすぐ北にある小泉八雲記念公園を示しています。)
足利子爵家西大久保屋敷への道
スタート地点はJR中央線大久保駅南口、ここから東にまっすぐ進みましょう。
JR山手線新大久保駅からの方は、線路沿いに南へ200mほど進んだところにある、東京国際文化学院のある角を東に曲がります。
都営大江戸線・東京メトロ副都心線東新宿駅スタートの方は、散策の終わり近くで出てきますので、そこからスタートしてコースをたどってください。
しばらく行くと、新宿区立西大久保公園の丁字路に当たりますので、これを右の南側に曲がって、さらに100mほど進むと、職安通に出てきます。
職安通を左折、東の神楽坂方向に進みましょう。
150mほど進むと、業務用スーパー「シオダヤ新宿店」や韓国料理店の並ぶ一角、新宿区大久保1丁目11番地に到着しました。
この大久保1丁目11番地は北に10mほど細長く続くのですが、その職安通に面した部分がかつての東京市豊多摩郡大久保町字西大久保234番地なのです。
現在はビル2棟と2店舗が建っていますが、足利家が住んだ当時も数件の家が建っていたものと思われます。
この辺りをじっくり見たのですが、残念ながら昭和初期の遺構は見当たりませんでした。
こんどは11番地の東側、K-スクエアとの間の細い道を北に曲がってください。
100mほど進んだ先の四つ角に、オシャレな公園が見えてきました。
これが新宿区立小泉八雲記念公園、ここで休憩しながら足利子爵家西大久保屋敷についておさらいしましょう。
足利子爵家西大久保屋敷とは
第6回「子爵足利於菟丸」で見たように、『華族名簿 昭和5年5月31日調』から二三年おきに引っ越しています。
これは於菟丸が子供の進学に合わせた結果なのは前にみたところですね。
「東京市豊多摩郡大久保町字西大久保234」という場所も、やはり目白に移転した学習院まで約2㎞という徒歩圏内なのです。
戸山にできた学習院女子部も約1.2㎞の場所にあるので、通学にはかなり便利な位置といってよいでしょう。
また、この辺りは明治時代後半から急速に開けた場所で、借家も多く手ごろな家賃だったことも大きな魅力だったに違いありません。
そのためか、『人事興信録』ではおよそ20年の長きにわたって西大久保の家で落ち着いて暮らしています。(『人事興信録 4版』・『人事興信録 第10版(昭和9年)』)
ただし『華族名簿』では7年前後と、住んだ時期がだいぶん違っているのは不思議なところ、しかしその理由はわかりません。
西大久保での暮らし
四男四女の大家族となった足利家、その暮らしはにぎやかで思い出深いものだったようで、長女彰子と次男尚麿の懐述でも、この西大久保の家での暮らしが詳しく描かれていています。
「その頃は私の腕白ぶりも頂点であったらしく、近所に邸宅のあった入江さん(母の親戚で二男が私の同級生-後に侍従長)や得能さん(矢張り初等科仲間)などと毎日遊びまわった」(「惇兄のこと」遊上尚麿)
長女の森山彰子によると、「私共兄妹は年齢の近い大勢でワイワイガヤガヤと育ちました。」(「兄を偲ひて」森山彰子)
ほかにも、惇氏が猿役になって気にのぼり、尚麿が子供用の空気銃で打つという猟師ごっこをしたり、彰子ら女の子を含めて兄弟で相撲を取ったりと、楽しくにぎやかな兄弟の姿が描かれているのです。(第7回「足利子爵家の暮らしと子育て」参照)
足利家の伝統を守る
ここまで見てくると、足利子爵家の暮らしぶりは、一般人に近いものだと言えるでしょう。
しかし、於菟丸は楽ではない生活の中でも、なんとか足利家の伝統を伝える努力をしていたようです。
ここでも子供たちの証言を見てみましょう。
「父は私の幼少時代によくわが家の系図を毛筆でいくども書かせ、ほとんどそらんじるくらいにさせたが、その中には歴史上の人物も出てきて、家に対する自覚というものが暗黙のうちに養われたようである。」(「尊氏とわが家」)
西大久保時代について二男尚麿の証言。「兄は長子として特別に扱われたらしく、自然に私達弟や妹の統率をして居た様だ。例えば毎日母から一人々々に与えられる八ツの菓子とか、せんべい、豆等の一部を兄に貢物として差出す習慣があった。どういう意味かは判らないが、貢物をブースと呼んで、もし知らぬ顔をしていると、兄がブースはまだかと催促した。」(「惇兄のこと」遊上尚麿)
はたして長男の惇氏は、名門足利家の棟梁たる人物になったのでしょうか?
答えはぜひ第10回「「将軍」足利惇氏の時代」をご覧ください。
足利子爵家にとっての西大久保
ここまで見てきたように、足利子爵家の西大久保での暮らしは、にぎやかで楽しいいっぽうで、かなり厳しいものでした。
大正8年(1919)に長男の惇麿(のちの惇氏)が家を飛び出したのをはじめ(第8回「若き惇麿の悩み」参照)、次々と子供たちが巣立っていったのもこの家ですし、末っ子の峻が生まれてすぐ里子にだされたのもこの家でした。
その後、長かった子育てが終わった於菟丸は、昭和10年(1935)に家督を長男の惇氏に譲って隠居した折に、「杉並区阿佐ヶ谷6丁目248」に引っ越したのを最後に、亡くなるまでこの地で過ごしています。(『華族名簿 昭和11年6月20日調』)
小泉八雲記念公園
それにしても、今、休憩している「新宿区立小泉八雲記念公園」はなんだか不思議な公園だと思いませんか?
公園の入り口にあるように、小泉八雲の出身地であるギリシャのレフカダ町と、終焉の地である新宿区が姉妹都市となったのを記念して平成5年(1993)に造られたとのこと。
ギリシャをイメージしてギリシャ古代風の列柱でアゴラをつくり、中世風の建物を建て、ギリシャらしい白壁の建物をつくったそうです。
それでは、あらためて小泉八雲についておさらいしてみましょう。
小泉八雲
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン:1850~1905)は『怪談』『知られざる日本の面影』など、生活に密着した視点から失われつつあった日本の伝統文化を世界に紹介した偉大な文学者です。
八雲はギリシャ生まれのイギリス人で、明治23年(1890)雑誌『ハーパース・マンスリー』特派員として来日しますが、その年のうちに英語教師として松江中学に赴任、日本文化に強い関心を持つようになります。
旧松江藩士の娘・小泉セツと結婚し、熊本五高へ転任した後、明治29年(1896)日本に帰化、東京に戻って東京帝国大学で英文学を教えました。
この八雲が明治29年から明治37年(1904)に狭心症で急逝するまで暮らしたのが新宿西大久保だったのです。
小泉八雲西大久保邸(明治38年9月撮影) 小泉八雲西大久保邸庭園 小泉八雲の葬列が西大久保邸を出る時
八雲の旧居跡碑が新宿区立大久保小学校前に建てられていますので、後で見に行くことにしましょう。
新宿区立大久保小学校
小泉八雲記念公園の北東口を出ると、道向こうに小学校が見えてきました。
これが新宿区立大久保小学校で、戦後復興建築らしき校舎を大切に補修しながら使っているのが何とも嬉しい感じです。
改めて大久保小学校のホームページを見てみると、なんと明治12年12月12日開校!
現校舎は昭和21年(1946)11月23日落成とありました。
この辺りの地域性を考えると、きっと国際色豊か何だろうなどと想像しつつ、前の道を南の職安通り方面に進みます。
小学校敷地の南端には先ほどの小泉八雲旧居跡の碑が建っていますので、ぜひ見てください。
光線学研究所
道の西側には「光線学研究所」という魅力的な施設が見えます。
ひょっとすると。昭和初期にはやった光線治療関係の施設かも、と興味津々ですが、コロナ禍ですのでここは外から眺めるだけに。
帰ってから一般社団法人光線研究所・保続診療所のホームページを見つけました。
それによると、昭和2年(1927)千葉県佐原で創立し、ここ西大久保に移ってきたのは昭和25年(1950)とのことです。
光線学研究所からさらに50mほど南に進むと職安通りに出てきました。
右の荻窪方面に進むと、足利子爵家西大久保屋敷跡に戻るわけですが、ここでちょっと寄り道して、逆の左の東方向の神楽坂方面に進んでみましょう。
ゆるい下り坂を150mほど進むと、明治通との大きな交差点に出てきました。
ここが新宿7丁目交差点、職安通を渡って道の南側に進みます。
すると、都営大江戸線・東京メトロ副都心線東新宿駅A1口に到着しました。
じつはこの地下鉄出入口前に立派な石碑が建っているのをご存じでしょうか。
これが「島崎藤村旧居跡」を示す碑なのです。
島崎藤村旧居跡
島崎藤村(1872~1943)は『破戒』『夜明け前』などの作品を残した日本近代の文豪です。
ここ西大久保には、小諸から上京した明治38年(1905)から翌39年(1906)まで暮らしました。
すでに『若菜集』で詩壇の第一人者として名声を確立していましたが、その後詩作をやめて小説家に転身、西大久保に住んだ当時は『破戒』を自費出版してどん底時代、貧困のうちに三人の娘を死なせてしまった悲しい思い出の地なのです。
明治39年に西大久保から浅草新片町に移り、『千曲川スケッチ』を発表するなどして、文壇で不動の地位を確立していくのはみなさんもご存じかも知れません。
それでは、島崎藤村旧居跡の碑から職安通りの南側を東の荻窪方面に進みましょう。
すると、100mほどで「鬼王神社前」交差点に到着しました。
交差点を北に進むと、先ほどの大久保小学校へ向かうのですが、ここは逆の南側にある鬼王神社に寄っていきたいと思います。
鬼王神社
鬼王神社とはなんとも強烈な名前ですが、正しくは稲荷鬼王神社(いなりきおうじんじゃ)です。
古くから大久保村で祀られていた稲荷神社と鬼王神社を天保2年(1831)に合祀して誕生しました。
ここで注目すべきは、境内に無造作に配された石造物です。
鳥居はもちろん、狛犬や井戸枠など、大正から昭和初期のものが多数、もしかしたら二男の尚麿と入江侍従長たちがこの辺りで遊んでいたのかも、などと想像が広がります。
ふたたび鬼王神社前交差点に戻って職安通を渡って道の北側に出て、50mほど西の荻窪方面に進むと、足利子爵家西大久保屋敷跡に戻ってきました。
ここから来た道を戻ると、散策は終了です。
JR大久保駅発着で、距離はおよそ1.8㎞、所要時間はあちこちのぞいたので約2時間。
コースが平坦なうえに、道々にいろいろな国の店が並んでいて、楽しい散策となりました。
小泉八雲記念公園の八雲像 足利子爵家西大久保屋敷跡の裏路地
現在の大久保は多国籍な町ですが、その前にあった庶民の暮らす活気ある町が広がっていた様子がうかがえたように思います。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献など:
『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市調査会、1912
『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市調査会、1912
『人事興信録 4版』(人事興信所編(人事興信所、1915)、)
『華族名簿 昭和5年5月31日調』(華族会館、1932)、
『人事興信録 第10版(昭和9年)上巻』人事興信所編(人事興信所、1934)、
『華族名簿 昭和11年6月20日調』(華族会館、1937)、
『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)、
「尊氏とわが家」足利惇氏/「惇兄のこと」遊上尚麿/「兄を偲ひて」森山彰子『足利惇氏著作集 第三巻 随想・思い出の記』足利惇氏(東海大学出版会、1988)
新宿区設置の案内板
新宿区立大久保小学校HP、一般社団法人光線研究所・保続診療所HP
参考文献:
『人事興信録 3版(明治44年4月刊)皇室之部、皇族之部、い(ゐ)之部−の之部』人事興信所編(人事興信所、1911)
『小泉八雲』田部隆次(早稲田大学出版部、1914)
『人事興信録 6版』人事興信所編(人事興信所、1921)
『人事興信録 7版』人事興信所編(人事興信所、1925)
『藤村全集 第17巻』島崎藤村(筑摩書房、1968)
『人事興信録 第11版改訂版 下』人事興信所編(人事興信所、1939)
「小泉八雲」『国史大辞典 第5巻』国史大辞典編集委員会(吉川弘文館、1985)
『平成新修 旧華族家系大成』霞会館華族家系大成編輯委員会編(財団法人霞会館、1996)
「わが細く遥かなる道」足利惇氏/「足利惇氏先生年譜」『足利惇氏著作集 第三巻 随想・思い出の記』足利惇氏(東海大学出版会、1988)
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