「八甲田山」から新宮へ【紀伊国新宮水野家(和歌山県)1】

恐ろしい映画

トラウマになるような恐ろしい映画、あなたにはありますか?

私がまだ小学生だったころ、一番恐ろしいと思う映画は何か、という話になったことがあります。

「オーメン」(1976、アメリカ)などの外国ホラー映画をあげる同級生が多数、なかには「犬神家の一族」(1976)、「八墓村」(1977)と横溝正史原作作品を揚げる人もいました。

しかし私が挙げたのが「八甲田山」、想像を超える寒さと雪はもちろんそれだけでも恐ろしいもの。

これに加えて、極限状態で一人一人の個性が消えていくのが恐ろしいうえに、そんななかでも階級が人の生死よりも当然のように重視されるのに驚愕したのです。

今からすると、軍隊という未知の存在への恐怖だったのかもしれません。

映画「八甲田山」パンフレット表紙の画像。
【映画「八甲田山」パンフレット表紙】

新宮水野家との出会い

その話を大学に入って仲間にした時のこと。

和歌山市出身の後輩が、事件の犠牲者で、ただひとり華族籍だった水野男爵家の嗣子・水野忠宜のことを教えてくれました。

彼は加えて、自分は和歌山藩士の家に生まれた祖母から、忠宜中尉のおじいさんが和歌山藩にずいぶんなことをしたと話していたことも教えてくれたのです。

私が全く知らない「事実」に驚き、いつか調べてみたいと思うようになりました。

そして新型コロナウィルスによるパンデミックに直面して、ようやく私はあの「八甲田山」の惨劇を思い出したのです。

ロープウェイ山頂付近から見た冬の八甲田山(撮影者Richard Masoner、Wikipediaより20220208ダウンロード)の画像。
【ロープウェイ山頂付近から見た冬の八甲田山(撮影者Richard Masoner、Wikipediaより)】

そこで今回は新宮と新宮水野家の歴史をたどることにします。

まずは新宮水野家について、おおまかにみてみましょう。

新宮水野家

新宮水野家は水野忠政の子・忠分にはじまる水野家の分家で、忠分の子・忠央のときに新宮の領主となりました。

慶長13年(1608)徳川家康10男頼宣の傳、つまり守役となり、頼宣の紀伊転封に従って付け家老として新宮に入ります。

付け家老とは、徳川御三家に設けられた役職で、文字通り将軍から御三家に家老としてつけられた家柄のことです。

付け家老は石高では大名であったものの、あくまでも御三家の家臣であり、将軍家からみると直臣ではなく陪臣で、その領国もあくまで御三家の中に含まれるものでした。

新宮全景(東半)(『新宮町郷土誌』和歌山県東牟婁郡教育会第一部会 編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【新宮全景(東半)『新宮町郷土誌』和歌山県東牟婁郡教育会第一部会 編集・発行、1932 国立国会図書館デジタルコレクション 】

ここで申し上げておきたいことが三つあります。

まずはじめに、敬称についてです。

この文章では煩雑さを避けるために敬称を略させていただきますのでご了承ください。

二つ目は、名称についてです。

新宮藩の成立は明治維新直後の慶応4年(1868)で、はやくも明治4年(1871)には廃藩置県により廃藩となり、存続期間はわずか4年間でした。

そこで今回は、新宮藩存続時機をのぞいて、紀州藩新宮領、あるいは省略して新宮領と呼ぶことにします。

三つ目は、家紋についてです。

新宮水野家の家紋は、武鑑類によると「立沢瀉(たちおもだか)」と「永楽銭」の2種がありましたが、今回は主とされた立沢瀉を用いることにします。

ここまで新宮水野家について大まかに見てきました。

もっと詳しく見ていくにあたり、まず次回は新宮についてみることにしましょう。

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