「福江直り」の内実【維新の殿様・五島(福江)藩五島家編㉔】

前回みた「福江直り」に、譜代の家臣たちは大浜主水事件で激しく抵抗したのはどうしてなのでしょうか。(第21回「大浜主水事件・深掘り編」参照)

そこで今回は、五島家に絶対忠誠を貫いてきた青方家の当主・雅盛の主張から「福江直り」の内実をみてみましょう。

青方雅盛

「福江直り」が五島藩の藩政体制確立に重要だったというのは、前回でみてきましたが、では実際の内容はどのようなものだったのでしょうか?

ここで、青方雅盛が寛永15年(1638)4月21日に藩主盛利に提出した口上書「五島罷退候条々」をみてみましょう。

なお、青方雅盛は鎌倉時代以来、五島の中通島青方地域の地頭頭をつとめた家に生まれました。

父の善助は、二代藩主玄雅と三代藩主盛利の跡目相続で、貞方雅貞とともに襲封の立役者となった人物です。

嫡男の雅盛も大坂冬の陣、島原の乱で五島藩兵を率いて戦功をあげています。

さらに、大浜主水事件では上五島で唯一、藩主盛利を支持しただけでなく、勝訴をもたらした功労者であることを念頭に、以下のことをみてください。

青方雅盛の主張

第一に、大浜(五島)玄雅の襲封に功績があり、また先代藩主玄雅に忠孝を尽くしたが、福江直りで知行地が取り上げられ、福江に荒野を与えられたこと。

第二に、譜代被官を召し使えなくなったこと。

第三に、大浜主水事件のとき盛利の正当性を裁許場で主張する功績があるのに、それに報いる行為が藩主にはないこと。

第四、五に、大浜主水事件のときに藩主の妻子に米・味噌まで島原から送って上を救ったのに、その功績が全く認められていないこと。

第六に、主水事件の勝訴後に材木山を与えられたが、すぐに没収されたこと。

第七に、領内検地が施行され、その内容が全く知りえない状況であること。

これらの理由から五島を退去した、と記しています。

中通島青方周辺、平成20年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKU20142X-C12-5〔部分〕) の画像。
【中通島青方周辺、平成20年撮影空中写真(国土地理院Webサイトより、CKU20142X-C12-5〔部分〕)  青方氏が鎌倉時代から領していた青方郷。】

「福江直り」の内実

この文からわかるように、「五島直り」が単に屋敷を福江城下町に移すということではないことがわかるでしょう。

じつは、所領の没収や被官の廃止と中世以来の在地領主の権限を完全に奪い去るうえに、藩政の情報を藩主が独占するというもの。

いわば、藩主が専制君主となるものだったのです。

これが藩主に忠義を尽くしてきた青方家にさえも、まったく容赦のないものだったのですから、主水事件で敵対した家臣へはさらに苛烈を極めたことは容易に想像できますね。

たしかに、幕藩体制において、将軍は日本全体に、藩主は領国で専制君主となるのが当たり前のことでした。

これが、中世的世界が色濃く残っていた五島では、一気に変革しなければならなかったのです。

今回見たように、朝鮮出兵や関ケ原など、苦難の時代に藩主五島家を支えてきた譜代の家臣たちを犠牲にして「福江直り」は断行されました。

しかし、ここまで無理をする理由はどこにあったのでしょうか。

次回は、五島藩に課せられ続けた特別なお役目、「異国船警備役」についてみてみましょう。

(「福江直り」については『物語藩史』『三百藩藩主人名事典』『三百藩家臣人名事典』『海の国の物語』に依りました。)

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